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五輪を廃止しなければなりません。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160412-00089436-diamond-bus_all&p=1%E3%81%AE%E8%A6%81%E8%AB%8B
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 4月5日、2020年東京五輪・パラリンピック大会組織委員会が大会前後の神宮球場使用中止を要請していることが明らかになった。

 組織委が使用中止を求めているのは、以下の理由からだといわれている。

 ●メイン会場の新国立競技場周辺は通行止めなどのセキュリティー対策が不可欠であり、隣接する神宮球場が使用されていると、それに支障が出る。

 ●五輪開催のための資材や放送機材の置き場所、観客の待機場所として球場を使いたい。

 こうした用地は神宮球場だけでなく、第2球場やテニスコートなど神宮外苑すべてが含まれるという。

● 頭越しに「大家」へ 突然の使用中止要請

 神宮球場の正式名称が「明治神宮野球場」ということでも分かるように所有者は宗教法人明治神宮。組織委はこの明治神宮に使用中止の要請をした。

 神宮球場は1926年の開場以来、90年間にわたり東京六大学野球や東都大学野球のリーグ戦、東京都の高校野球予選会場などに使用されてきた。と同時に1964年から東京ヤクルト球団の本拠地となり、プロの試合が行われている。こうしたアマチュアの野球連盟や球団は明治神宮から貸与を受けて試合を開催しているわけだ。

 使用中止になれば困るのは連盟や球団だが、こちらには何の相談もなしに組織委は地権者の明治神宮に「五輪期間前後は貸与しないで」と要請したのである。いわば大家に一時的ではあるが、店子を追い出してくれと言っているようなものだ。

 また、その要請の内容も連盟や球団を困惑させるものになっている。2020年の五輪が開催されるのは7月24日から8月9日まで、続いてパラリンピックが行われるのは8月25日から9月6日までだが、使用中止はこの1ヵ月半ではなく、5月から11月末までの半年に及ぶ。これでは六大学や東都の春と秋のリーグ戦はできないし、夏の高校野球の東京都予選も開催不能。東京ヤクルトもほぼ1シーズン、本拠地での試合が開催できなくなる。

 加えて、それに伴う補償や代替球場の話も出ていないという。神宮球場が長期間使用中止ということになれば、代わりの球場を探さなければならない。賃貸の交渉をはじめ、大きな労力が強いられる。また、神宮球場だからこそ多くの観客が集まり、それなりの入場料収入が見込めたのに、それがなくなるのだ。

 組織委側は補償をしないというわけではないようだが、それは使用中止が決まってからの話という姿勢。まず中止要請ありきであり、誠意が感じられない。報道では、「関係する野球関係者は一様に、この使用中止要請に困惑している」といった表現をしているが、本当のところは困惑を通り越して激怒しているのではないだろうか。

● 1シーズン使用中止なら 東京ヤクルトの損失は? 

 東京六大学野球、東都大学野球の両連盟も「聖地」神宮球場で伝統のリーグ戦ができなくなるのは耐えられないはずだが、この要請を最も深刻に受け止めているのは東京ヤクルトだろう。開催期間だけの1ヵ月半なら譲歩できる範囲かもしれない。阪神の例もある。阪神は夏の高校野球が行われる約3週間、本拠地の甲子園球場で試合ができなくなる。高校野球開催期間中はビジターの試合を多く組み、ホームゲームはオリックスの本拠地である京セラドーム大阪を借りて乗り切っている。

 東京ヤクルトも、2020年のシーズンだけ遠征を多くし、また東京ドームでホームゲームを行なうなどすることで対応は可能だ。が、5月から11月末まで、ほぼ1シーズン神宮球場が使えないとなると、興行として試合を行なうプロ球団としては大打撃を受けることになる。

 まず広告収入。球場には多くの企業が看板広告を出しているが、ホームゲームがなくなれば契約打ち切りが続出するに違いない。球場の広告は多少の入れ替わりはあるものの継続契約が多い。契約しないシーズンが1年あれば翌年再契約してくれる保証はないわけだ。

 同様のことがいえるのは年間シートだ。ホームゲーム全試合が見られるもので、ヤクルトの場合、1席30万円程度。個人で購入する人もいるが、多くは企業が契約している。神宮球場は交通の便が良く気軽に観戦できるのが利点。得意先を招待したり、それがない時は社員やその家族が利用するという目的で購入する。この年間シートも継続購入が多く、一度契約が途切れれば、離れてしまう人が出るに違いない。

 ヤクルトはチーム名に「東京」をつけているように東京のファンを意識した球団だ。ファンもそれを受け止め、神宮球場でビニール傘を振りながら「東京音頭」を歌うのが生きがいという人が少なくない。ほぼ1シーズンの使用中止はそうしたファンの楽しみを奪うことでもある。「2020年は五輪が開催される特別な年だから、このシーズンだけはヤクルトも地方での試合をして、新たなファンを開拓すればいい」といった声もあるようだが、東京を意識した球団に地方のファンがつくとは思えないし、遠征続きでは選手の体ももたない。ファン離れを招く危険が大なのだ。

 ヤクルトに限らず今、球団の営業はファン獲得に必死になっている。ファンが喜びそうな企画やサービスを競って打ち出し、観客動員を増やそうとしている。球団の赤字を親会社に補填してもらう体質を脱し、独立採算でやっていこうと努力しているわけだ。神宮球場の使用中止要請は、そうした球団の努力を無にし、ゼロから営業活動をし直せといっているのと同じ。無茶なのである。

● ファン置き去りの計画 背景に神宮外苑再開発? 

 そんな無茶な要請が行われるのは、ある背景が考えられる。東京五輪を機に明治神宮外苑地区の再開発を行なう計画があるのだ。昨年4月、東京都と日本スポーツ振興センター、明治神宮などの地権者が再開発に協力する覚書を交わした。老朽化した神宮球場と秩父宮ラグビー場を建て直し神宮外苑をスポーツの一大拠点にしようという計画だ。

 具体的にはこうだ。東京五輪までに秩父宮ラグビー場を解体して駐車場にする。五輪後にその跡地に新神宮球場を建設。その間に旧神宮球場を取り壊し、そこに新秩父宮ラグビー場を建設するというものだ。確かに神宮球場も秩父宮ラグビー場も老朽化しており、改築が必要な時期にきている。そのふたつが新しくなれば新国立競技場とともに人々を引きつける場所になるだろう。都心の一等地にリニューアルされたスポーツエリアが出現するわけで、ファンにとっても待望の計画といえる。

 しかし、だからといって大学野球関係者や一球団、それらのファンが痛みを受けるのは仕方がないというのは違うのではないだろうか。それに新神宮球場が完成しても、ヤクルトの本拠地になる保証はないのだ。

 五輪・パラリンピックも野球も同じスポーツだ。また、人々が見て楽しみ対価を支払う興行としての側面があることも共通する。どちらかが損をする構図ではなく、Win-Winでなければならないのだ。

 いずれにしても、五輪開催のために神宮球場の使用中止が不可欠ならば、まず使用する側に補償や代替球場などを含めて提案し、協力を得るのが筋というものだ。五輪は国家的事業だからといって、そうした手続きを怠る組織委の姿勢は傲慢といわざるを得ない。  


Posted by いざぁりん  at 01:00
こちらです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160424-00000068-mai-soci
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 旧作品の白紙撤回により選び直されている2020年東京五輪・パラリンピックの公式エンブレムが25日に決まる。大会組織委員会が8日、公募で集まった1万4599点から絞った最終候補4作品を公表したことで、インターネット上には落選した応募作があふれる。ギャラリーを借りて、落選デザインの個展開催に踏み切る芸術家も現れている。

 元立教大大学院特任教授(比較文明学)のアーティスト、彦坂尚嘉(なおよし)さん(69)は21日、東京都新宿区のギャラリーで1日限りの落選展を開いた。落選作は約10人のチームで1カ月以上悩み抜いたといい、その経緯をパネル約20点で示した。

 落選展は大規模コンクールなどの落選作を集めたもので、審査への抗議を含む場合もある。19世紀にフランスで革新的な写実主義絵画を確立したギュスターブ・クールベが開催したことで知られる。

 彦坂さんは「最終候補4作品は、国民規模のデザインコンペにしては均質で多様性がない。一連の騒動を振り返り、日本のデザイン界そのものが発奮すべきだとも思い開催した」と語った。

 お笑いコンビ「キングコング」の西野亮広さん(35)も絵が得意で、今回応募して落選した。自身のブログで作品を公表しつつ落選作を募集。25日に「負けエンブレム展」として、独断で選んだ優れたデザインをネット上で公開するという。

 既に数百点の落選作が寄せられたといい、「最終候補の4作品は無難なデザインでつまらない。落選作にも素晴らしいデザインがあったはずで、評価されるべき場所が必要と考えた。一人でも多くの人がすてきなデザインに目を留めてほしい」と語った。  


Posted by いざぁりん  at 00:59

2016年04月27日

落選展

こちらです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E9%81%B8%E5%B1%95
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落選展(らくせんてん、フランス語: Salon des Refusés)は、意味としては、フランスで公式のサロンの審査員によって落選させられた作品を集めた展覧会のことだが、特に1863年の展覧会を指す場合が多い。落選者展とも表記される。

落選展がはじまったのは1830年代と早く、パリのアート・ギャラリーが、サロンに落選した作品を集めた、小規模かつプライベートな展覧会を催していた。 それが1863年の展覧会は大騒ぎで、実はフランス政府が後援していた。この年、いつもの年より多い、3,000点以上の作品がサロンに落選したことに、美術家たちが抗議したのだった。展覧会には次のような公式の告示が出された。


一般の諸君がこの抗議が正当なものであると判断してくれることを望む


フランス皇帝ナポレオン3世も、サロンに付随して、落選した美術家たちが自分たちの作品を展示してもよいという命令を発した。しかし、多くの批評家ならびに大衆は落選作品を嘲笑した。その中には、エドゥアール・マネの『草上の昼食』、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの『白の少女』が含まれていた。しかし、絵画の世界に突如として出現したアバンギャルドの正当性を認め、注目する批評もあった。マネの励ましもあって、1874年、印象派はサロンの外ではじめた展覧会を成功させた。落選展は、1874年、1875年、1886年にもパリで開催され、その頃にはパリ・サロンの名声も影響力も衰えてしまっていた。
  


Posted by いざぁりん  at 00:59
利権の巣窟である五輪を、廃止しなければなりません。
https://thepage.jp/detail/20160425-00000012-wordleaf
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 2020年東京五輪・パラリンピックの新しいエンブレムに、「組市松紋」をあしらった野老朝雄(ところ・あさお)さん(46)のA案が選ばれた。

 採用された野老さんの「組市松紋」は、世界ではチェッカーデザインとして、日本では江戸時代に「市松模様」として広まった意匠をコンセプトにしたもので、日本の伝統色である藍色をメインに使用している。

同じピースを組み立てる、つなげていく

 野老さんは、エンブレムは五輪用、パラリンピック用ともに45個のピースで構成したと説明。「五輪もパラリンピックも同じピースを組み立てる、つなげていくということ。それはずっと考え続けてきた」とデザインへのこだわりを語った。

 藍色一色でデザインした点については、模様を白抜きして単色で染める型染の一つである「江戸小紋」を引き合いに出し、「潔い表現ができればと思った。夏に行われる大会ということで、涼しげなものも良いのではないか」と語った。

 また、今後エンブレムを使って、例えばデジタルサイネージなどによる展開が考えられるとして、「そこに色を付けようとすると何億の何億乗という可能性が出てくる。みんなで色を付けていくカラーリング、塗り絵のようなことは考えていた」と明かした。

 エンブレム委員会の宮田亮平委員長は、新しいエンブレムについて、「シンプルで良い」「日本の伝統や粋を感じる」「クールな印象」などの評価があったと紹介した。同委員の王貞治氏も会見で、「日本というイメージがぴったりの作品」と感想を語った。ただ一方で、宮田委員長は、「地味」「目がチカチカする」のようなネガティブな意見もあったとした。
  


Posted by いざぁりん  at 00:58
こちらです。
http://www.cosmopolitan-jp.com/love/sex/news/a611/car-crash-17-girlfriends-hospital-china/?utm_source=ycdpc3&utm_medium=yahoojp-p4-c3-dl
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​何かとびっくりニュースを提供してくれる中国。

今回は、自動車事故に見舞われるも、奇跡的に一命をとりとめたとある男性のエピソードを、コスモポリタン イギリス版からお届け。

普通、事故にあって生き延びた場合は「不幸中の幸い、生きててよかった!」と喜ぶものだが、彼の場合は、むしろ一命をとりとめないほうがよかったんじゃないか…とさえ思ってしまう。

病院に担ぎ込まれた男性、ユアン氏はかなりの重症で、医師たちは緊急事態と判断。急いで彼の"親戚たち"に連絡した。すると血相を変えて病院へ駆けつけてきたのは、総勢17人の女性。しかも全員「彼と付き合っている」と主張したのだ。病院内はかなりざわついたらしい。つまりこのユアン氏、なんと17股(!)をかけていたというわけである。

その彼女の中の1人、リーさんは「事故にあったと聞いたときは気が動転して涙が止まらなかった。病院に搬送されただなんて、心配で仕方がありませんでした。なのに大急ぎで病院に駆けつけると、次から次へとキレイな女性が現れて…。もう呆然として、それ以上涙も出てきませんでした」と語った。

さらにリーさんは、他の女性たちとオンラインのチャットグループを作り、情報や体験を共有しているという。何人かは彼に"経済援助"をしており、そのうちの1人はなんと9年(!)以上もの間、お金を渡していたことが判明。

また、別の女性はなんとユアン氏との間に息子までおり「どうしたらいいのかわからないの。もう彼のことは愛していないけれど、息子は何より大切な存在なのよ…」と突然のことに戸惑っていたらしい。

気の毒な女性たち…ユアン氏って、それほどいい男だったの? でも、やっぱり悪いことするとバチ(事故)が当たるんですね。
  


Posted by いざぁりん  at 00:58
こちらです。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160426-00006114-sbunshun-ent
(以下は、コピーです)
「ゲスの極み乙女。」のボーカル・川谷絵音(27)との一連の不倫騒動を受けて、いまだ全ての芸能活動を休止中のベッキー(32)から4月22日、週刊文春編集部へ直筆の手紙が届いた。郵送ではなく、彼女の所属事務所である「サンミュージックプロダクション」の代表取締役社長・相澤正久氏によって本誌デスクへ直接手渡された。

 このひと月余り、週刊文春はベッキー本人へのインタビューを事務所を通じて繰り返し申し込んでいた。結局、インタビューに応じることはなかったが、彼女は現在の心境を便箋5枚にわたり手紙にしたためたのだ。

 ベッキーは手紙の中で、〈川谷さんへの気持ちはもうありません。文春さんで奥様が話された記事を読み、そこで初めて奥様のお気持ちを知り、自分の気持ちの整理がつきました〉などと、禁断愛の核心について綴っている。

 最新の週刊文春5月5日・12日合併号では手紙の全文が掲載される。


<週刊文春2016年5月5日・12日『スクープ速報』より>  


Posted by いざぁりん  at 00:57
こちらです。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/ak/seinen.html
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マルクスが、1835年17歳ギムナジウム卒業時、書き上げた文章です。生きるとは自分のためだけではなく、人々の幸福のために働くことをつうじて、自分自身を完成することができるという格調高い決意のニュアンスは訳者によって我々に伝わってくるニュアンスが大きく違うことを実感して頂きたくて、対比しました。服部文男先生の訳は黒字で、真下信一先生の訳は赤字です。




しかし、地位の選択にさいしてわれわれを導いてくれなければならぬ主要な導き手は、人類の幸福であり、われわれ自身の完成である。これ等両方の利害がたがいに敵対的にたたかいあうことになって、一方が他方をほろぼさなければならないのだなどと思ってはならない。そうではなくて、人間の本性というものは、彼が自分と同時代の人々の完成のため、その人々の幸福のために働くときにのみ、自己の完成を達成しうるようにできているのである。

職業を選ぶにあたってわれわれを導くべき主な道しるべは、人類の福祉、我々自身の完成である。この2つの関心は、お互いに相容れない敵対的な関係にあるかのように思い違いをしてはいけない。実際はそうではなくて、人間の本性というものは、彼が同胞の完成、同胞の福祉のために尽くす場合にのみ、自己の完成を遂げうるように出来ているのである。




自分のためだけに働くとき、そのひとは、なるほど著名な学者であり、偉大な賢者であり、優秀な詩人ではありえようが、けっして完成された、真に偉大な人間ではありえない。歴史は、普遍的なもののために働くことによって自己自身を高貴なものとした人々を偉人と呼ぶ。経験は、最大多数のひとを幸福にした人を、最も幸福な人としてほめたたえる、宗教そのものは、万人が追求する理想が人類のために自己を犠牲にしたことをわれわれに教えている。そしてだれがこうした金言をあえて否定するであろうか?

もしも一人の人間がただ自分のためだけをはかって仕事をするならば、あるいは、彼は高名な学者、偉大な賢人、傑出した詩人になることができるかもしれないが、しかしけっして完成したほんとうに偉大な人間になることはできない。歴史が最も偉大な人間たちと呼んでいるのは、一般のためにつくすことによって、自分自身をりっぱにした人たちのことであるし、経験が最も幸福な人間としてたたえているのは、たくさんの人々を幸福にした人たちのことであるし、宗教そのものがわれわれに教えているのは、万人の手本となっている理想の人は人類のためにその身を捧げたのだということであって、はたしてだれがこのようなことばをあえて否定するだろうか?




われわれが人類のために最も多く働くことのできる地位を選んだとき、重荷もわれわれを屈服することはできないであろう。なぜなら、その重荷は万人のための犠牲にすぎないからである、またそのとき、われわれは、貧弱で局限された利己主義的な喜びを味わうものではない。そうではなくて、われわれの幸福は数百万の人々のものであり、われわれの行為は、静かに、しかし永遠に働きながら生き続けるのである。そしてわれわれの遺体の灰は、高貴な人々の熱い涙によって濡らされるであろう。

われわれは人類のために最も多く尽くしうる職業を選んだ場合には、その重荷もわれわれをくじくことはできない。なぜなら、そうした重荷は万人のためにの犠牲にすぎないからである。その場合には、われわれはどんなみじめな狭い利己的な喜びをも味わうことはせず、われわれの幸福は万人に属し、われわれの仕事は静かに音もなく、しかしとこしえに影響を及ぼしつつ生きつづけ、そしてわれわれのなきがらは、けだかい人々の熱い涙にぬらされるのである。




真下信一先生の訳は、我々の心の中に素直に流れるように浸み込んできますね。名訳です。
  


Posted by いざぁりん  at 00:44
こちらです。
http://ameblo.jp/kuriyakin/entry-10549503659.html
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中島みゆきの軌跡 9



2010-05-30 17:54:02
テーマ:ブログ


 中島美雪は、5歳のときからピアノを習わせられている。そして13歳のときにピアノを止めている。往復2時間もかけて8年間通ったピアノ教室をやめたのは、高校受験のためである。そして、1967年、帯広柏葉高校に、入学したときに、両親からガットギターをプレゼントされている。家にはピアノがなかったから、これは美雪が始めて手にした楽器と言える。「「あなたも一週間でギターが弾ける」という本を買ったけど、5年かかった」という本人のコメントは冗談。レコードを聴きながら、ギターテクニックをマスターする。

 STVでのアルバイトについてはすでに述べたが、その他にもいろいろとアルバイトをしている。郵便の仕分け作業、株式総会での封筒作り、野菜の叩き売り、祭りの後のごみの整理、ス-パーや百貨店の試食販売コーナーの売り子など。

 1972年には、札幌冬季オリンピックのアルバイトにも従事している。朝日が昇る前、会場への送迎バスが来るのを凍えながら待つ。会場に着くと、客席のベンチに積もった雪をひとつずつ落としてゆく。神経がある限り、寒さは肌を刺し痛い。根気強い彼女の性格が垣間見える。

 美雪は、会場整理のアルバイトで得た金で、初めてフォークギターを買う。当時、フォークソングが流行っていたので、僕の世代の学生で、ギターの弾けない男子学生のほうが少なかった記憶がある。しかし女学生でギターの弾ける子はひとりもいなかった。その代わり今は普通になったキーボードを持っているリッチな学生は少なかった。せいぜいギターどまりである。ちなみに、ユーミンはピアノ、みゆきはギター、という比較がされることがあるが、中島みゆきは、披露したことはないがピアノの名手でもある。ピアノというブルジョワジー的な楽器ではなく、ギターという庶民的な楽器を選んだのは、彼女の意志であろう。

 とにかく、高校3年生のときに、文化祭のステージでギター一本で歌った美雪は、ウーマンリブのはしりだったのかもしれない。

 1972年5月28日、ニッポン放送主催の「全国フォーク音楽祭全国大会」に、北海道地区代表として出場する。会場は、日比谷野外音楽堂。アコースチックギターで、「あたし時々おもうの」を歌う。

 審査は意見が割れてなかなかまとまらず、結局は4組にグランプリを与えることになった。その中にもちろん、美雪の名はある。プロデビューを薦められるが、彼女は辞退している。全国大会の1週間ほど前に、谷川俊太郎の「私が歌う理由(わけ)」という詩を渡され、それに曲をつけるというのが課題になっていた。

 美雪は、その詩を読んで喉元にナイフを突きつけられたような思いをする。何のために歌っているのか、歌とは何なのかということを厳しく自分に問い詰めることになる。そのため彼女のプロデビューは、1975年まで待たねばならない。


私が歌うわけは

一匹の仔猫

ずぶぬれで死んでゆく

いっぴきの仔猫


私が歌うわけは

いっぽんのけやき

根をたたれ枯れてゆく

いっぽんのけやき


私が歌うわけは

ひとりの子ども

目をみはり立ちすくむ

ひとりの子ども


私が歌うわけは

ひとりのおとこ

目をそむけうずくまる

ひとりのおとこ


私が歌うわけは

一滴の涙

くやしさといらだちの

一滴の涙

(「私が歌う理由」谷川俊太郎)


 谷川俊太郎は、死や孤独、沈黙の中に、人間の非力を見ていたのではないだろう。それらのものの悔しさと苛立ち、というものの実存にこそ、問い掛けたかったのだろう。

 1972年、美雪は教員課程を取っていたため、母校の柏葉高校で教員実習を行う。国語の実習にもかかわらず、美雪は壇上に立つと、

「私は将来、シンガーソングライターになるつもりです。実習に来たのは単位を取るためです」と挨拶し、いきなりギターを取って歌いだしたそうである。谷川俊太郎の詩にショックを受け、自らを追い詰めて、いったんはプロデビューを断念した美雪であったが、プロの歌手になるという情熱は失っていなかった。

 1974年、大学を卒業した美雪は、帯広に戻る。帯広での活動は前述したとおりであるが、その頃、ある雑誌に写真入で美雪の文章が載る。「私とレコード」というコーナーで、吉田拓郎について書いている。


 たかが歌でふと泣けたりする。その時の音楽の「価値」というのは一体どうやってつけるのだろうと思うのです。


 「たかが愛」という後年の歌を思い起こす。歌をなりわいとする中島みゆきにとって、「たかが愛」というのが悪い意味であるはずはない。その「たかが歌」の奥深さと、「価値」について自分を追い詰める、美雪の姿がある。

 

もしどこかで凄くひどい目に遭って落ち込んでいる人がいて、たとえばわたし歌を思い出してもらって「歌に出来る程度の子とじゃん」と思えば、少しは気も楽になるんじゃないか。歌に出来ないほどもっともっとつらいことってありますよね。歌に出来る限り、そんなことは屁でもないと、わたしは言いたいんですね。


 吉本隆明氏との対談で、彼女は言い切っている。

 (「marie claire」1991年11月号 中央公論社)


 1975年、美雪は、地元のアマチュア・アーティストばかりが出演する「ヤングフェスティバル」に出場する。帯広市のファッションタウン「ベル」の2階で、出演者は3人と1組。観客はわずか約60人。美雪はトップバッターでステージに立ち、「町へお帰り」などオリジナル曲数曲を歌う。このとき、美雪はヤマハから「ポプコン」出場を薦められるが、これを断っている。歌はコンテストなどで競い合うものではないし、まして賞などによって評価されるべきではない、と考えたのだろうか。

 断ったはずのヤマハから手紙が届く。内容は、


 賞が欲しいなら来ないでください。


 ヤマハはただ賞を与えるためだけのコンテストをしているのではない。まだ見ぬすばらしいアーティストを発掘するために、「ポプコン」をやっているのだ。リスナーの心を動かすことのできるものが結果として賞をとることが出来るのである。ヤマハはそう言いたかったのだろう。美雪はポプコン出場を決意する。

 前述の、旭楽器商会1階のスタジオで、応募テープを作成する。

 5月18日、静岡県掛川市にある、つま恋エキシビションホールで行われた第9回ポプコン本選会で、「傷ついた翼」を歌って入賞を果たす。

 同年9月25日、シングル「アザミ嬢のララバイ/さよならさよなら」のリリースでプロデビューする。

 プロデビューを果たしたものの、みゆきは既に、次の第10回ポプコンに作品応募しており、予選を勝ち進み、釧路帯広地区予選、北海道大会を通過し、本選会に勝ち進む。

 10月12日、つま恋本選で、「時代」という曲でグランプリを、受賞する。

 同年11月、第6回世界歌謡音楽祭で、「時代」はグランプリを受賞。中島みゆきは。洋々とした海原に、出帆することになる。
  


Posted by いざぁりん  at 00:44