京つう

イベント  |伏見区

新規登録ログインヘルプ



こちらです。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12339843.html?rm=150
(以下は、コピーです)


 ■「みる・きく・はなす」はいま


 3月17日、23年間続いたNHKの報道番組「クローズアップ現代」は、最終回で社会の課題に向き合う若者たちを取り上げた。昨夏、安全保障関連法案への反対デモで注目された学生団体SEALDs(シールズ)の奥田愛基(あき)さん(23)も登場した。

 その2日後、奥田さんログイン前の続きは京都市での集会で、「NHKは昨年6月から取材していたのに、全然企画が通らなくて」と話した。NHKはデモだけでなく、昨年7月には、大学での日常風景なども撮影していた。

 どの番組で放映されるか明確には告げられず、奥田さんは昨年11月、担当者から「放送を目指しているが、企画が通らずごめんなさい」と言われたという。

 それがクローズアップ現代に決まったと言われ、3月に改めて撮影。「出演は口外しないで」と念押しもされた。放送が実現し、奥田さんは思った。「現場は頑張ってくれたんだ」

 NHKの労働組合に加入する放送職場の職員たちが、昨年9月に開いた緊急集会のチラシにはこうあった。「じつは今、NHKでは安保法案関連の放送が、出しにくい?」

     *

 番組は4月、「クローズアップ現代+」に衣替えし、初回からキャスターを務めた国谷裕子(くにやひろこ)さん(59)は降板した。

 ある現役ディレクターは国谷さんを「相手が誰でも聴くべきことを聴く人」と信頼する。印象に残るのは、2014年に菅義偉官房長官が出演した回。集団的自衛権への道を開いた閣議決定に「歯止めがかかるか、多くの人が心配している」などと繰り返した。

 国谷さんの降板について、NHKの板野裕爾(ゆうじ)専務理事(当時)は3月の参院総務委員会で「現場の判断を優先した」と答弁した。

 朝日新聞の取材に国谷さんが答えた。昨年12月に契約を更新しないと伝えられ、理由は「番組をリニューアルし、キャスターも一新するためとのことでした」という。「11月末に制作現場はキャスター継続との提案をしており、一緒に番組を制作してきた方々は、替えずにいきたいと、最後まで強く主張したと、あとで耳にしました。それを聞いて、これまで23年間続けてきて本当によかったと思いました」とコメントした。

 NHK広報局は放送時期や降板に関する質問に「番組の内容は、報道機関としての自主的な編集権に基づいて、その都度、判断しています」と回答した。

 最終回翌日、国谷さんへの「感謝の夕べ」が東京・原宿の中華レストランであり、番組に携わった歴代関係者約300人が集った。

 「1日でも長く一緒に仕事を続けたかった」。あいさつが続く中、現役ディレクターは「自分が担うべき責任を、国谷さんに負わせてきたのではないか」と自問し、思った。「責任を果たすため、したたかに番組を作り続けよう」

     *

 「SEALDs KANSAI(カンサイ)」のメンバーだった女性(24)は2月、中心メンバー用のLINE(ライン)のグループから「脱退」した。街頭に立つこともやめた。

 「おじさんにばれたら」と気になった。日頃から世話になっているおじは現政権に肯定的。「波風を立てたくない」と思った。

 街頭で「意見を言うことは当たり前」と訴えてきたのに。自己矛盾に陥った。

 今春、大学院を修了。久しく会っていない友人に電話をかけ、政治について話すことを始めた。

 これまでにも、「お祭り騒ぎしたいだけじゃないの?」などとデモへの偏見を耳にしてきた。思いをわかってもらうには一対一で話すことがもっと必要かも。それは、今の私にもできる。

 「街頭で声を上げることと、身近な人と話すことは、私にとって同じ」。これからも自分の考えを言葉にしたい、と思っている。=おわり
  


Posted by いざぁりん  at 00:26
こちらです。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12338529.html?rm=150
(以下は、コピーです)
 ■「みる・きく・はなす」はいま


 「国歌はどうしますか」

 2月17日にあった岐阜大学の定例会見での質問。森脇久隆学長(64)は「君が代は歌いません。大学の愛唱歌を大事にしたい」と答えた。短い質疑が「騒動」の引き金になった。

 昨年6月、当時の下村博文・文部科学相が全86の国立大学長らに国歌斉唱を要請。それから初めてとなる卒業式が近づいていた。

 4日後の21日、馳浩文科相は金沢市で「国立大として運営費交付金が投入されている。私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と発言。23日の閣議後会見でも同様に述べた。

 ネットには「非国民の大学」といった言葉が躍り、大学には複数の抗議電話がきた。「従わないと、交付金に影響が出るのでは」と不安がる教員もいた。

 工学部教授で、大学職員組合委員長の新村昌治(しんむらしょうじ)さん(61)は約200人の組合員にメールで呼びかけ、学長に方針堅持を求める要望書を25日に出した。

 この問題では、研究者団体が抗議声明を出し、報道もされた。だが、職員組合は要望書の発表を控えた。新村さんは「外へ声を出せば、圧力が強まり、かえって自主的決定の妨げになる。学内の活動にとどめるのが得策と考えた」。

 大学側も注目されることを避けた。3月15日の定例会見は、学内の地下水で開発した「番茶」などの事前に準備した発表だけで終わりかけた。記者が「卒業式に変更は。文科相の発言への感想は」と問うと、森脇学長は「式は例年通り。その他はコメントを控えます」。50秒足らずの質疑だった。

 10日後、卒業式は愛唱歌を歌って穏やかに終わった。大学への抗議電話もこの日でやんだ。

     *

 声は上げたいが、身に不利益が降りかかることも避けたい。

 山口県立柳井高校(柳井市)で昨年6月24日にあった現代社会の授業。18歳に選挙権が与えられる1年後を見据えた主権者教育として、2年生のクラスで、国会審議中の安全保障関連法案を取り上げた。

 審議を報じた朝日新聞と日本経済新聞の記事5本を生徒に配り「政府・首相の見解」「野党の主張」の対立点を各自で挙げた。8班で議論し、班の代表が賛成、反対の立場で発表。最も説得力のある発表を投票で選んだ結果、反対の班への支持が多かった。

 授業が報道された翌週、7月3日の県議会一般質問で、自民党の笠本俊也県議(43)が質問した。

 「政治的な中立性が問われる高校教育現場にふさわしいものだったのか」

 ある自民県議は「総理に近い古株議員ほど記事を見てカッカしていた」と明かす。会派では「校長や担当の先生を呼べ」といった声も出たが、県教委幹部が答えることで折り合った。

 県教委は校長を通じて、授業を担当した教諭が、自分の考えを授業中に明らかにしていないことなどを確認。「政治的中立性は確保されていた」と判断した。

 ただ、「結果的に賛否を問う形になった」点などについて、浅原司教育長(61)は「配慮が不足していた」と議会で答弁。取材に「投票結果が表に出たときの影響を想像することも教員側に必要だった」と語った。「配慮不足」の答弁は謝罪ではないとの立場だ。

 1年近く経った今、生徒の一人は「授業は貴重な場だった」と話す。普段、友だちとは政治の話はしない。授業では賛否を二分するテーマを議論し、自分とは違う考え方に触れた。

 県議会では自民県議が「国会審議中のテーマを取り上げることは適切だったのか」とも発言した。

 「そんなことを言われると、ただでさえ政治に無関心なのに、ますます無関心になる。それでいいのかな」
  


Posted by いざぁりん  at 00:25
こちらです。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12337196.html?rm=150
(以下は、コピーです)
■「みる・きく・はなす」はいま


 「どうしたら平和になれるかと先人たちが考えた結晶が日本国憲法。だからとても格調高い言葉なんです」。東京都三鷹市で1月にあった「憲法を記念する市民のつどい」で、国語学者の金田一秀穂・杏林大教授(62)はそう話した。

 つどいは1980年から続く。「憲法を暮らしに生かそう」と、市と市民団体が共催し、作家の大江健三郎氏らが講演してきた。

 「小さな頃から憲法が好き」という金田一さんは当初から、国語学者として「憲法で使われている日本語について話そう」と思っていた。ところが、事務局だった市の幹部らは金田一さんを事前に2度訪ね、こんな「お願い」をした。

 「取り立てて9条そのものを話すのは避け、国語学者の立場から憲法を話して下さい」。理由をこう言った。「安保法制がある中で、市が特定の立場だと誤解されたくない」

 幹部らは、前回の講師が「9条を守りたい」と発言し、市議会で問題視されたことも説明した。つどいを批判してきた自民党の吉野和之市議(63)は「講師が毎年、護憲に偏っている。税金を使う以上、違う考えの講師も呼ぶべきで、それが公平だ」と話す。

 市の「お願い」を、金田一さんは「問題を起こしたくないんだな」と受け止めた。「異論が出るのが健全な民主主義なのに、もめるのを問題視するとは。意識せずに同調圧力に加担しているのかも」

 清原慶子市長(64)は「経緯を伝えるのは当然で、圧力を掛ける意思は全くない。広く憲法をひもといてほしいとの思いで、言論の自由は何より尊重している」と説明。案内状に9条の条文を明記したことも強調した。一方、「お願い」した幹部の一人は「周辺自治体が憲法行事をやめる中、つどいを続けるには慎重にやりたい」と話す。

 5月14日の次回のつどいの講師は、地方自治の専門家。経緯を知る市職員は自嘲気味に言った。「地方自治なら、風当たりが強くないから」

    *

 「公平」や「中立」を訴える声が、時として自由な言動を縛る。

 参院で安全保障関連法案が審議されていた昨年8月31日。北海道美瑛(びえい)町で、「皆で考えよう安全保障法案」と題した折り込みチラシが2千戸余に届いた。

 映画「幸福の黄色いハンカチ」になぞらえた黄色の紙に、「今の平和と幸せを次世代につなげたい。私たち美瑛町社会福祉協議会は争いのない助けあいの社会を目ざします」とあった。

 町社協は介護支援などを担う社会福祉法人。ある理事は「戦争は福祉の対極。看過できなかった」。

 1万人の町でチラシは波紋を呼んだ。自民党美瑛支部は「政治的活動」とみなし、中心となった理事らの辞任を求める要望書を社協に出した。社協はいったんは、「啓発活動だ」と突っぱねたが、すぐに謝罪。要望された3人を含む理事4人が辞任した。

 社協の村上和男会長(71)はこの間、釈明に回った。チラシを問題視する商工会の幹部に「これは自民党ではなく町民の声だ」と言われ、思った。

 「自民支持者の多くは企業や商店街。社協はその寄付が頼りなのに、敵に回しては立ちゆかなくなる」

 自民支部の井内豊・前幹事長(72)は「政治的中立であるべき社協が正しい姿になるよう、参考意見を出したまでだ。圧力かどうかは受け取り方次第」と話す。社協の村上会長も取材には「政治的圧力ではない」と首を振った。

 だが、辞任に追い込まれた理事の一人は納得がいかない。「自らの行為を否定し、自粛して謝る。圧力は組織の内部にもある」
  


Posted by いざぁりん  at 00:22
こちらです。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12335970.html?rm=150
(以下は、コピーです)
■「みる・きく・はなす」はいま


 4月14日と16日、最大震度7を観測した熊本地震。震源から南西へ百数十キロ、九州電力川内(せんだい)原発(鹿児島県薩摩川内市)から10キロあまりの住宅街で暮らす女性(52)は、揺れる度に不安になる。

 薩摩川内市でも最大で震度4の揺れが3回あった。〈川内原発に異常はないということです〉。テレビでアナウンサーが繰り返す。隣の熊本で大地震が起きるなんて、考えてもいなかった。女性は少しずつ疑い始めている。「本当に原発は大丈夫か」と。

 川内原発は東日本大震災後の新規制基準に基づき昨夏、再稼働。原発では約1300人が働く。女性の近所にも関連の仕事に就く人がいて、原発の話は日ごろから控える空気があった。

     *

 昨年12月20日夕、女性の地元の自治会館で忘年会があった。男性陣は門松を作り、シシ汁や鶏刺しで女性たちをもてなす。約30人で一年の労をねぎらった。

 1時間あまりが過ぎたころ、地元の原発関連企業に勤める男性が立ち上がった。東京電力福島第一原発の近くに長期出張し、除染作業に携わっていた。その話を聞いた元自治会長(75)が「語ってくいやんせ」と頼んだのだった。

 男性は見た光景を話し始めた。干したままの洗濯物。田んぼも道路も草だらけ。辺りに人っ子一人いない不気味な感じ――。

 10分ほどの話が終わると、拍手が起きた。テーブルの一つで、女性は言った。「なんで再稼働したんですかねえ」。わき上がる疑問が口をついて出た。

 原発について考えたことさえなかった。だが東日本大震災から5年が経ち、原発事故を検証したテレビを見て「百%安全なんてないのでは」と思うようになった。元公務員の夫とは「福島のようになったら、この辺には二度と住めなくなるね」と話した。

 忘年会での話はそれ以上続かなかったが、話を振った元自治会長の男性は思う。「賛成だろうと、反対だろうと、もっと語り合える雰囲気ができるといい」

 「地震怖いね」。最近、女性は洗濯物を干しながら隣の家の女性と庭越しに話した。その時は話せなかったが、いつか原発の不安も話したいと思う。

     *

 名古屋市千種区に住む在日韓国人3世の男性(30)は妻(34)が日本人だ。5年前、まだ交際中だった妻に会うため岩手県に行き、東日本大震災に遭遇。しばらく車の中で過ごした。

 混乱の中で頭をよぎったのは、1923年の関東大震災。「朝鮮人が放火している」などの流言が広がり虐殺事件も起きた。男性は本名で生活する。流言で自分が害を被ったら彼女はどうなるだろう、と恐れた。「デマは流れていないか」と、ツイッターを始めた。

 それまでもインターネット上の在日コリアンへの攻撃は気にしていたが、何もしなかった。学生時代に一度、差別的な書き込みに反論したが、大量の攻撃にさらされた。「自分ではどうにもならない現実なんだ」。つらい記憶が残った。

 しかし、ツイッターを始めると、専門知識などを武器に実名で反論している人がいることを知った。「我慢してやり過ごそうとしてきたけれど、それで現実が変わっただろうか」と自問し、少しずつ声を出し始めた。ヘイトスピーチに抗議するため、路上にも立った。

 熊本地震では、直後からツイッターで、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」などの流言が出回った。

 男性は積極的に発信した。「海外観光客も被災する中、差別扇動デマを放置するのは危険です」

 今は思っている。「黙っていてはだめだ」
  


Posted by いざぁりん  at 00:19
言論の自由が、失われつつあります。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12334189.html?rm=150
(以下は、コピーです)
 ■「みる・きく・はなす」はいま


 「保育園落ちたの私だ」

 3月5日、そんな言葉が書かれた紙を手にした約30人が国会前に立った。

 東京都大田区の会社員倉橋あかねさん(52)は自分を実名でさらす覚悟で、前日昼に「国会に行く」とツイートした。「私も行く」。声は1日で広がった。

 衆院予算委員会で保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名ブログと、待機児童問題が議論されたのは2月29日。安倍晋三首相の「匿名である以上、実際にそれが本当かどうか」との答弁、議員席からは「ちゃんと本人を出せ」のやじ。

 倉橋さんはその動画を見て次男の保育園が見つからず苦労した「20年前の怒りが解凍された」という。

 匿名の誰か?

 「出て行ってやる」

 東京都品川区の30代男性も20代の妻、0歳の息子と国会前に立った。

 自分も妻も会社勤め。妻の育休明けに向けて申し込んだ二つの保育所に「落ちた」ばかりで、やじに怒りを抑えられなかった。

 政治は「どうせ変えられない」と思う一方、心のどこかで「高い税金を払っているのに」と感じていた。デモには「うるさいな」と否定的だったが、国会前では穏やかに談笑する人ばかりで安心した。

 ただ、「一緒に写真を撮りましょう」と言われると、心がざわついた。

 SNSに載る? 名前や顔は絶対に出したくない。インターネット上で攻撃され、会社に「どういうこと?」と聞かれるかも。辞めさせられる? 聞かれること自体が面倒ごとだ。

 写真は全て断った。

 自分も「顔が見える」会社や友だちの間で政治のことは話さない。出る杭をたたく人は、必ずいる。個人はさらけ出せない。

    *

 3月9日、子を抱く母親たちが塩崎恭久厚生労働相に、保育制度の充実を求める約2万7千人の署名を手渡した。メディアに映った彼女たちへの攻撃がネット上で始まった。服がブランド品だ、抱っこひもが高級だ――。

 「やっぱり」。5日に国会前に立った品川区の男性は思った。攻撃材料は何でもよく、声をあげる人へのねたみもあるんだろう。「それでも、みんな雰囲気におびえる。個人が前に出ること自体がよくない、日本の空気の本質でしょう。実名や顔は出せない」

 23日、衆院第2議員会館での待機児童問題の集会には約50人が集まった。マイクを握り、訴える母親をテレビカメラが映す。一方、その脇に「顔出しNG」の一角が指定された。映ることはできない人たちは、配慮されたその場所に固まり、うなずいていた。

    *

 安全保障関連法の議論が熱を帯び、各地でデモがあったこの1年。初めて声をあげた人の周囲にも「前に出ない方がいい」との空気がまとわりつく。

 あんたのところの嫁は狂っているのか――。

 関西地方の40代女性は昨夏、夫からそんな内容のメールを見せられた。差出人は自分の姉。心当たりはあった。

 2人の幼い娘がいる。「法律ができると、子どもたちの命が危うくなることが増えるのでは」と法案反対のデモに参加し始めたころで、自分が写った写真が新聞に載ったことがあった。

 「何がいいたいの」

 通信アプリのLINE(ライン)を通じて姉に問うた。

 「誰がみてもその変わりように安心はしてない」「40歳過ぎても心配されてる大人である事を認識した方がいい」と返ってきた。

 母も含めて家族みんなが心配している――そう言いたいんだと感じた。浮かんだ言葉は「身内の恥」。60代の母はテレビで「声をあげる若者」を見て「えらいなあ」と言う。でも、身内は許されないんだろう。

 姉との連絡は絶った。

 「自分がいたら変な空気になるかも」と、正月の親類の集まりには出なかった。

 1歳の娘がいる大阪府の20代女性も昨夏、報道を見て安保法案が気になった。「政治はえらい人がやるから間違いない」と思っていた。だが、集団的自衛権、武力行使――そんな言葉を耳にするうち「知りたい」との思いが募り、新聞を読んだり憲法の勉強会に行ったりし始めた。

 法が成立したころ。昔からの友人ら5人で買い物をしていた時に、さりげなく「安保法ってあるやん」と話題をふってみた。自分のように気になる人はいるのでは、との思いだった。

 「難しいこと言うて」「政治のこと。すごいね」。笑って「スルー」された。どっちを言ったら正解なのか分からない「難しい」話は、友だち同士ではしない。暗黙のルールのようなものが確かにある。


 ◆「みる・きく・はなす」はいま

 私はこう思う。そんな普通の言葉が、攻撃されたり、場を奪われたりして、発せなくなっていないでしょうか。29年前の5月3日、朝日新聞阪神支局で記者2人が殺傷されました。事件後に始めた企画の第41部では、「話そかな」と口を開こうとした人々が向きあう現実を、五つの話で描きます。まず、「話さない」社会の息苦しさから。
  


Posted by いざぁりん  at 00:18