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政治運動は、基本的に、一人から始まります。
もちろん、たった一人でも、可能です。
一人が、大事なのです。
そして、永続させることが、大切なのです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160815-00000054-asahi-soci
http://sealdspost.com/tobe/
https://www.youtube.com/watch?v=Xl6GtoAb_dM
(以下は、コピーです)
 安全保障関連法などに反対してきた学生団体「SEALDs(シールズ)」が15日、解散し、最後のメッセージ動画をネット上に公開した。

 動画は約3分間で、音楽に乗せて活動を振り返る内容。活動の成果として、今夏の参院選での4野党の共闘などを挙げた一方、「選挙結果を含めて十分とは思っていない」とした。また、市民が周りの人と政治について語り合うことの必要性も訴えた。

 解散を受け、「SEALDsは解散します。しかし終わったというのなら、また始めましょう。始めるのは私であり、あなたです。何度でも反復しましょう」と呼びかけている。

 動画は(http://sealdspost.com/tobe/)で閲覧できる。  


Posted by いざぁりん  at 21:26
こちらです。
http://www.news-postseven.com/archives/20150810_341407.html
(以下は、コピーです)
2015.08.10 16:01

 終戦に至るドラマを描いた映画『日本のいちばん長い日』(松竹、8月8日公開)を見て、あらためて戦争について考えさせられた。私はなぜ「敗戦」と言わず「終戦」と言うのか、ずっと疑問だった。だが、映画を見て少し謎が解けたような気がする。

 日本は戦争に負けた。それは事実である。だが、指導者たちにとっては「どうやって戦争を終わらせるのか」こそが重大問題だったのだ。

 1931年の満州事変(日中戦争)が太平洋戦争に至る15年戦争の始まりである。陸軍の青年将校たちは「それ行け、どんどん」で満州に攻め入った。だが、いったん火がついてしまうと、軍部も政治家たちも自分たちで始末を付けられなくなった。

 結局、どうにもならなくなって、立憲君主制の下では、本来なら内閣の結論を追認する役割にすぎない天皇が「聖断」を下すことで戦争を終結させた。戦争の終わらせ方こそが最大の難問になってしまったのだ。

 この無責任体制は、実はいまも残っている。政治家と官僚は政策を始めるときこそ意気軒昂だが、それが失敗と分かっても止められず、責任もとらない。

 新国立競技場の建設問題が最新の実例だ。安倍首相が決断するまで、担当する文部科学大臣も官僚たちも自ら見直しに動かなかった。失敗の責任はといえば、局長が1人更迭されただけで政治責任はうやむやにされている。

 それからもう1つ。あの戦争は何だったか。いまも「自存防衛のやむを得ない戦争だった」という意見がある。ソ連の南下を満州で阻止するのに加えて、人口急増問題を解決するためにも満州開拓は不可欠だったという説だ。

 しかし、だからといって日本が武力によって他国の領土と主権を侵し、権力を握ろうとした行為を正当化できるか。私にはできない。

 元老・伊藤博文は1906年の時点で「満州は純然たる清国領土」と指摘している。当時でも「日本が満州に軍事侵攻すれば侵略になる」という認識があった証拠ではないか。いま日本が「満州事変は侵略でなかった」などと唱えれば、中国の南シナ海での無法行為も非難できなくなってしまう。

 あの戦争は日本の侵略戦争だった。歴史家は過去の目で過去を見るのかもしれない。だが、私は現在の目で歴史を評価したい。それがいま過去を総括し、より良い未来につながると思うからだ。

■文・長谷川幸洋(はせがわ・ゆきひろ):東京新聞・中日新聞論説副主幹。1953年生まれ。ジョンズ・ホプキンス大学大学院卒。規制改革会議委員。近著に『2020年新聞は生き残れるか』(講談社)
  


Posted by いざぁりん  at 00:35

2016年08月15日

終戦 敗戦

こちらです。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6945321.html
(以下は、コピーです)
「「終戦記念日」や「終戦の日」と言うのは俗称です。
8月15日の公式名称は「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」です。

停戦日でも終戦日でも敗戦日でも無く、玉音放送(国民に降伏を通知)が行われた日であり、現在は「戦没者追悼式」を行う日です。

敗戦記念日とすれば、ポツダム宣言の受諾通知は8月14日、降伏文書への調印は9月2日です。
終戦記念日とすれば、平和条約調印の9月8日、又はその発行の4月28日です。

これらの日は、公的には記念日とはされていませんので、日本には終戦記念日や敗戦記念日は存在しません。

主権国における防衛論にまで展開するなら、せめて「日本には、敗戦記念日どころか終戦記念日さえ存在しない」と言う認識から発端すべきです」。



 「仰せのとおり歴史的事実を考えると正に敗戦ですね。終戦という語はその事実の隠蔽とも考えられてきますね。
 この言葉が最初に使われたのは、陛下の終戦の詔勅においてでしょう」。  


Posted by いざぁりん  at 00:35
こちらです。
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1694482.html
(以下は、コピーです)
 SMAPが、今年の12月31日をもって解散することが13日深夜、明らかになった。所属事務所がマスコミ各社にファクスで書面を送った。国民的アイドルグループの歴史は、デビュー25周年の節目の年に、幕を閉じることとなった。

 メンバー5人のコメントは以下の通り。

 ▽中居正広 ファンの皆様、関係各位の皆様、我々SMAPが解散する事をご報告させて頂きます。ご迷惑をお掛けしました。ご心配をお掛けしました。お世話にもなりました。このような結果に至った事をお許しください。申し訳…ありませんでした…。

 ▽木村拓哉 この度の「グループ解散」に関して、正直なところ本当に無念です。でも、25周年のライブもグループ活動も5人揃わなければ何も出来ないので、呑み込むしかないのが現状です。沢山の気持ちで支えて下さったファンの方々、スタッフの皆さんを無視して「解散」と言う本当に情け無い結果になってしまいました。今は言葉が上手く見つかりません。

 ▽稲垣吾郎 ファンの皆様、スタッフ関係者の皆様、この度はご心配ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ございません。今の状況で五人での活動は難しいと思い、辛い決断ではありますが「解散」という形を取らせて頂く事になりました。どうか僕達の意思をご理解頂けたらと思います。28年間本当にありがとうございました。

 ▽草なぎ剛 この度僕たちSMAPは解散する道を選びました。いつも応援してくれたファンの皆様、支えてくれた関係者の皆様、グループ結成から28年間本当にありがとうございました。今後も精進して参りますので引き続き、温かく見守って頂けると嬉しく思います。

 ▽香取慎吾 ファンの皆様、そしてスタッフ関係者の皆様。僕らSMAPは解散いたします。応援して下さった沢山の方々に心より感謝申し上げます。そして突然のお知らせとなりましたこと、深くお詫び申し上げます。
  


Posted by いざぁりん  at 00:34
こちらです。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/soichiromatsutani/20151218-00052572/
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創られちゃう伝統――「夫婦別姓」最高裁判決を受けて生じる無邪気な言説

松谷創一郎 | ライター、リサーチャー 2015年12月18日 16時30分配信

1896年の最高裁判所(提供:MeijiShowa.com/アフロ)

竹田恒泰さんのツイート

12月16日、夫婦別姓を認めない民法の規定について、最高裁が合憲の判断を下し、原告の訴えが却下されました。女性差別の撤廃を求める国連の勧告などもあり、かねてから注目されていたこの裁判ですが、15人の裁判官のうち女性3人全員と男性2人の5人が「違憲」としたように、その判断は大きく一致しませんでした。

また、判決文には「この種の制度の在り方は、国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならない」と記されているように、法改正をする立法府(国会)の仕事ではないか、とも指摘されています。これを受け、自民党法務部会や公明党・山口代表などから議論すべきだという意見も生じており、もしかしたら今後さらなる動きがあるかもしれません。

さて、こうした判決にはさまざまな方が意見表明をしておりますが、昨日から注目されているのは、明治天皇の玄孫(やしゃご)として知られる竹田恒泰さんです。ツイッターで以下のような発言をして、波紋を呼んでいます。
Twitter - 竹田恒泰Twitter - 竹田恒泰Twitter - 竹田恒泰Twitter - 竹田恒泰
いくつか主張をなされていますが、ここで注視するのは4番目「日本の伝統的家族制度が崩壊することにつながる」です。この竹田さんの主張は、本当に正しいのでしょうか?

夫婦同姓は伝統?

さっさと結論を言えば、この竹田さんの認識は歴史学的にはかなり怪しいものです。

判決が出た翌日、各紙は大きくこの裁判を扱いましたが、そのなかで家族社会学が専門の山田昌弘さん(中央大学教授)が以下のような解説を寄せていました。

明治時代の半ばまで、日本は夫婦別姓の国でした。

源頼朝の妻は北条政子と呼ばれ、足利義政の妻は日野富子のままでした。結婚で夫婦の一方が姓を変え、同じ姓にする現在の制度は、明治政府が西洋化政策の一環として、法律で強制したものです。

戸籍制度ができるまでは、名前じたい桂小五郎が木戸孝允になったりと、もっと自由でのびのびしたものでした。

「伝統を守れ」というなら夫婦別姓に戻せという意見が出てしかるべきでしょう。

夫婦別姓に反対する理由として、家族が壊れるという人もいます。しかし、日本と同様、儒教の影響を受けた中国や韓国はずっと別姓の原則でやってきましたが、そのために家族が壊れている、仲が悪いなど、ということは聞いたことがありません。

夫婦別姓への反対は結局、理屈ではなく感情なのでしょう。その底にあるのは、この社会の同調圧力です。多数と同じでない人は変だ、けしからん、皆と同じにしろという無言の圧力です。

出典:朝日新聞デジタル2015年12月17付「社会の同調圧力の象徴 山田昌弘さん(中央大学教授)」
山田さんのこの話は特段意外なものではなく、ある程度日本の歴史に明るいひとであれば既知の知識です。近代化は、明治元年から完全に始まったわけではなく、段階的に時間をかけて進んでいきました。近代の国民国家としての制度が概ねまとまったのは、19世紀後半(明治20~30年代)です。現在にまで繋がる夫婦同姓が施行されるのは、明治民法の始まりでもある1898年(明治31年)のこと。そこには、以下のようにあります。

第七百八十八絛

妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル

入夫及ヒ壻養子ハ妻ノ家ニ入ル

出典:明治民法(1898年)
よく知られているように、夫婦同姓とは家長相続を基礎とした近代家父長制を支えるものとして欧米に倣って整備されたもので、決して日本の伝統ではありませんでした。そもそも明治以前は、家父長制は武士階級(家族も含めると人口の10%)においてのみ見られたものに過ぎず、豪農や豪商などでは母系相続(姉家督)や末子相続などが広く見られていました(※1)。つまり、江戸時代の家族制度は多様だったのです(このあたりは、過去にも「同性パートナーシップ条例から考える『結婚』の未来」という記事で触れたので、そちらもご参照ください)。

ことほどさように、竹田恒泰さんの「夫婦同姓は伝統である」という認識は、歴史的には誤りです。

『創られた伝統』

それにしても、明治時代に明治天皇の名の下に行われた社会政策について、その明治天皇の玄孫を標榜している竹田さんが存じないのは、どうしてなのでしょうか。謎はつきません。
エリック・ボブズボウム、テレンス・レンジャー編『創られた伝統』。エリック・ボブズボウム、テレンス・レンジャー編『創られた伝統』。
そこでひとつ補助線を引いておくことにします。取り上げるのは、エリック・ボブズボウムとテレンス・レンジャーが編んだ『創られた伝統』(1983=1992年/紀伊國屋書店)という本です。その内容はタイトルそのまま。実は伝統ではないのに、近代になって伝統と見なされるようになった文化や社会制度について、研究・分析した専門書です。具体的には、ヨーロッパやインド、アフリカにおいての事例が7章で取り上げられています。専門書ではありますが、読み物として非常に面白い一冊です。

そのなかでとても印象に残ったのは、ヒュー・トレヴァー=ローパーの「伝統の捏造――スコットランド高地の伝統」という論文です。スコットランドと言うと、タータンチェックのスカートを履いた男性がバグパイプを吹く民族的な文化が日本でもよく知られています。しかしあれこそが、近代の産物でした。

そもそも17世紀後半まで、スコットランドの高地に住むひとは「アイルランドからあふれた野蛮人」として認識されており、それ以降にタータンチェック柄のキルトを自らの「伝統」として位置づけ、普及させていったのです。
Inazo Nitobe Inazo Nitobe "Bushido:The Soul of Japan"
日本にもこうした「創られた伝統」は多く存在します。いまでも一般に広く知られているところでは、10年ほど前には藤原正彦『国家の品格』でもブームとなった「武士道」が挙げられるでしょう。この言葉が日本で広く伝わったのは、20世紀以降のこと。きっかけは、1900年(明治33年)に新渡戸稲造が英語で発表した” Bushido: The Soul of Japan”でした。日本では、1908年に『武士道』のタイトルで出版されベストセラーとなります。後に新渡戸の肖像は2007年まで5000円紙幣にも使われるようになりますが、それもこれもこの『武士道』があったからこそです。

しかし、日本文化研究者のバジル・ホール・チェンバレンが早い段階で指摘したように、「武士道」という言葉は1900年以前のいかなる辞書にも載っていませんでした(※2)。それでも新渡戸が、(キリスト教の影響をふんだんに盛り込んで)「武士道」をでっち上げたのは、日本を見下す西洋諸国に対しての強い反発があったからです。英語で書かれたのも、アメリカやイギリスの読者を想定していたためです。チェンバレンはそんな「武士道」を「新宗教のイノベーション」とまで断じますが、実際に日露戦争後に日本で出版され大ヒットしたように、このコンセプトは日本人にも大受けしたのです。なんだか昨今の「クールジャパン」という言葉を連想してしまいますね。

伝統は無邪気に“創られちゃう”

話を最初に戻しますが、竹田恒泰さんの意見はかなり恣意的なものですが、そこに強い作為性を感じるものでもありません。ツイッターの文脈を見るかぎり、どうやら本当に知らないのでしょう。そこにあるのは、自分が望む社会制度を「伝統」だと信じたい願望です。伝統は「捏造される」というよりも、竹田さんのように無邪気な姿勢から「創られちゃう」わけです。

必要なことは、このような無邪気な言説によって「創られちゃう伝統」をひとつずつ整理し、そしてより多くのひとに望まれる日本社会の有り様を講じ、議論のための道筋を整備ずることでしょう。今回の夫婦の姓についての議論では、われわれの選択肢は大きく分けると以下3つになります。
•1:夫婦同姓制(現行制度)
•2:夫婦別姓制(韓国や中国と同様)
•3:選択的夫婦別姓(同姓・別姓どっちもOK)

冒頭で触れたように、自公連立与党も議論する道に進みそうです。それは上記の3を踏まえてのものです。

安倍政権下で社会における「女性活躍」を推進する自民党では、現在は要職に就く女性議員が何人かいます。稲田朋美政調会長や高市早苗総務相、野田聖子議員などです。このなかでは稲田議員と高市議員が現行の夫婦同姓制(1)を支持し、野田議員は選択的夫婦別姓(3)を支持しています。このように、自民党の女性議員でも立場が異なるのです。

今後も国会において、冷静かつ有益な議論を望みたいものです。

※1……上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』(1994年/岩波書店)。

※2……Michele M. Mason ”Empowering the Would-be Warrior: Bushido and the Gendered Bodies of the Japanese Nation” =ミッシェル・メイソン「日本国家における武士道とジェンダー化された身体――サムライ志願者への檄文」 サビーネ・フリューシュトゥック、アン・ウォルソール編 『日本人の「男らしさ」――サムライからオタクまで「男性性」の変遷を追う』(2013年/明石書店)所収。
  


Posted by いざぁりん  at 00:33
こちらです。
http://www.sankei.com/west/news/140809/wst1408090022-n1.html
(以下は、コピーです)
撃墜戦闘機からパラシュート脱出、松の木にぶら下がった米兵はピストルを向けた…豊中空襲、機体の残骸は埋められた

 昭和20年になると、大阪府豊中市6 件でも6回にわたる空襲があった。当時、国民学校6年生だった中右(なかう)吉信さん(80)は、7月30日にあった6回目の空襲の際、伊丹飛行場(現・大阪空港)を襲う米軍戦闘機「P51ムスタング」が高射砲によって撃ち落とされる光景を目撃したという。

伊丹飛行場襲う戦闘機

 中右さんが通っていた学校は、20年3月の大阪大空襲6 件をきっかけに授業が休止となったが、校庭は食料を確保するためサツマイモ畑になっていた。7月30日朝、中右さんは畑に水をまく当番だった。

 登校して間もなく、警戒警報が発令され、同級生とともに急いで自宅に向かった。東の低空に1機の米軍機が見えた。「隠れろ」。大人の叫び声が聞こえ、とっさに幅1メートルほどの農水路に隠れた。水路をふさぐ木材の間の隙間から西の空が見えた。数機の戦闘機が伊丹飛行場を襲っていた。

 そのときだった。「低空で攻撃するP51に、高射砲が命中したんです。高度を下げるためエンジンを一時止めていたからだと思いますが、P51は火を噴くこともなく空中分解しました」。次の瞬間、白いパラシュートがスルスルと開いて風で南東方向へ流されていった。「『やった』と思いましたね」。中右さんは振り返る。

埋められた機体の残骸

 翌日、同級生らから聞いた話などによると、パラシュートは豊中市岡町北の大きな松の木に引っ掛かり、足を負傷した若い米兵がピストルを構えていた。住民らが殺気立って囲んだが、憲兵が来て米兵を病院に連れていった。

 「豊中市史」によると、7月30日は米軍機約130機が午前8時半から11時ごろにわたって大阪を襲い、そのうち40機が伊丹や大正(大阪府八尾市)などの飛行場を銃爆撃した。

 伊丹上空では、墜落した2機から2人の米兵がパラシュートで脱出したが、いずれも一両日中に死亡。真田山陸軍墓地(大阪市)に埋葬された。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は、2人が死亡したのは十分な医療処置が施されなかったためだとして、軍関係者を戦犯裁判にかけた。

 墜落したP51のプロペラは、高射砲の近くに戦意高揚のモニュメントとして掲げられた。しかし戦後、GHQの追及を恐れ、機体の残骸は軍によって地中に埋められたという。

 39年後の昭和59年、豊中市教委が「戦争資料展」の展示資料にするため、埋めたとされた場所を発掘し、残骸が出土した。モニュメントとなったプロペラには赤い字で力強く「P51 撃墜 7・30」と記されていた。残骸は現在、豊中市の収蔵庫で保管されている。
  


Posted by いざぁりん  at 00:33

2016年08月15日

豊中空襲

こちらです。
http://digital.asahi.com/articles/ASH8D46BKH8DPPTB002.html?rm=278
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-toyonaka.htm
(以下は、コピーです)
大阪府豊中市への空襲は昭和20年 6月 7日から終戦までに6回行われ、死者575人、重軽傷者約900人、
罹災家屋約3,000戸を数えた。その被害は大阪府下では、大阪市、堺市に次ぐ3番目の戦災都市となった。


こちらも。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E4%B8%AD%E5%B8%82
http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%97%E5%B9%B4+%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC+7%E6%9C%88&aq=-1&oq=&ei=UTF-8#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D0
(以下は、コピーです)
戦争被害
現在の豊中市域では1945年6月7日以降、6月15日、6月26日、7月9日、7月22日、7月30日まで、米軍による6回の空襲を受けた。被害が最も大きかったのは6月7日の空襲(第3回大阪大空襲)で、現在の市北部の住宅地域が大きな被害を受けたほか、軍需用に転用されていた当時の庄内町(現在の市南部)の工場地帯が爆撃を受け、学徒動員されていた府立豊中中学校(現:豊中高等学校)や府立豊中高等女学校(現:桜塚高等学校)の生徒の多くも死傷した。計6回の空襲による被害は罹災面積96ha、罹災人口12,951人、死者575名、重軽傷者898人、罹災家屋3,540戸に及んだ[3]。
  


Posted by いざぁりん  at 00:32