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こちらです。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11968347.html
(以下は、コピーです)
 安保関連法案の国会審議が大詰めを迎えている。安保政策の大転換にとどまらず、「戦後日本」に変容を迫るものともいえる。戦後70年の今、日本社会はどの地点にあり、今後どこに向かうのか。識者への連続インタビューで考えたい。まずは、人間の本質を鮮烈な映像美でえぐり続け、このほど大岡昇平の戦争文学「野火」を自主製作、監督・脚本・主演を務めた塚本晋也さんに聞いた。


 ――自費を投じて作られた映画「野火」は、7月に公開されるや大きな反響を呼び、各地で上映が続いています。「二度と見たくないけど、見てよかった」など、寄せられている感想も独特ですね。

 「日本中の映画館に足を運び、お客さんと対話するよう心掛けているのですが、多くの方は、すぐに感想を言えないんですね。言葉に詰まり、もう一度見ますとか、後でゆっくり考えますとか、1カ月考えてやっと答えがでましたとか、言葉にならない思いをなんとか言葉にしようとしてくれている。『泣けた!』では終わらない、そのプロセスと時間の長さはとても大事で、作り手として望んでいたことでもあります」

 「肉が裂け、ウジがわき、内臓が飛び出し、手足が千切れ、脳みそが砕け散る。大岡昇平さんの原作にできるだけ忠実に、『肉体の死』を容赦なく、叫ぶように描きました。大義もヒロイズムもない戦争の悲惨さや痛みを、理屈ではなく身体で感じてほしかったからです。そしてできれば、感じたことの内側にさらに深く踏み込んで、自分の頭で考え続けてほしい。戦争とは何か。戦後70年を迎えた日本でいま、何が起きようとしているのかを」

 ――悲惨極まりない戦争の実相を描いているのに、涙を流す余地がまったくありません。

 「戦争を描くなら、加害者の目線で描かなければならないと、ずっと思ってきました。10年くらい前、『野火』を撮るために、フィリピン戦を経験した元日本兵へのインタビューを重ね、多くの資料にあたった。捕虜をやりで突けと言われ、やりたくないと思いながらドーンと突いた瞬間、腹のあたりに今まで感じたことのない、ある充実した手応えを感じた、そこからは殺すことが平気になって――そんな話をたくさん見聞きしました。加害者は、涙とは無関係の世界に行ってしまう。戦争の一番の怖さはそこにある。加害を描かなければ、戦争や人間の本質には届きません」

 「加害の記憶は、多くの方が口をつぐんだまま亡くなられるので、なかなか継承されません。それをいいことに、加害の事実をなかったことにして、戦後日本の方向性が大きく変えられようとしている、恐ろしいと思ったのが、『野火』を作った原動力のひとつです」

    ■     ■

 ――安倍内閣は、安全保障関連法案を「平和安全法制」と名付けました。戦争のイメージをできるだけ遠ざけたいという意図を感じます。

 「戦争とは結局、殺すか、殺されるか。極めて肉体的なものですが、安保関連法案の国会審議を聞いていても、戦争の現場で痛い目にあった人たちの存在は忘れさられているとしか思えません。その痛みの実感をどうにかして取り戻さないと、『戦争は平和である』的な政府の論法にズルズル引きずられてしまいます」

 「ものすごいスピードで物事が進められているのは、深く考えてもらったら困るからでしょうか。徴兵制はあり得ないとか、戦闘には参加しないという政府の言葉はどうやって信用したらいいのでしょうか。自民党の憲法改正草案には、国家のためには個人の人権は軽く扱わせて頂きますよということが、ちょっと難しい言葉で書いてある。テクノロジーの発達で戦争の方式は変わっても、そこに根付く精神が戦前と変わらなければ、同じようなことが起こり得ます。『戦争は絶対悪だ』という線を手放してしまえば、限定的だとか後方支援だなんていう境目は、いずれ押し流されてしまうのではないでしょうか」

 ――しかし、「大事なものを守るために戦う」というヒロイズムには、「戦争は絶対悪だ」以上の訴求力がどうもある。安倍首相は「国民の命を守るため」と法案の意義を強調しています。

 「ヒロイズムで戦争をとらえるのは間違いだと、はっきり言えます。実写でもアニメでも、戦争を暗示させる作品が描くのは幻想としての甘美な死で、肉体の死では決してない。命を捧げて、何かを守る。死によって、その人の生は意味あるものとして肯定される。主人公の内面に寄り添ってそのプロセスを感動的に描き上げれば、観客がカタルシスを覚えることはあるでしょう」

 「だけど、考えて欲しい。目の前に銃を突きつけられ、数秒後に死ぬという時の自分の感情を。銃を相手に突きつけて、数秒後に殺すという瞬間のことを。きっと、こう思うのではないでしょうか。『他に方法はなかったのか?』。こうなる前に、戦争を回避する方法はなかったのかと」

 ――「野火」を撮ったのは、そういう風潮への反発ですか。

 「反発と言うより、焦りです。この20年、『野火』を映画化したいと言い続けてきましたが、とても難しかった。最初は金銭的な理由で断られていたのが、次第に予算と関係なく断られるようになりました。ボロボロになった敗軍兵が飢えて人肉を食べたなんていう映画を作るわけにはいかないという、暗黙の自粛なんだなと」

 「戦争は絶対悪だというのは、戦後日本の当然の前提だったはずです。それがいつの間にか、大きな声でそう言うことをためらわせる時代の空気というか、無言の圧力が生まれている。だからこそ、戦争の愚かさを圧倒的に描いた『野火』を、この時代にぶち当てたい、そうしないと気が済まないという使命感のようなものにも駆られ、まったく何もないところから自主製作に踏み切りました」

 「映画が公開される前から、そんな映画を作るなんてけしからんという声もありました。反日という声もあったそうです。驚く以前にあきれてしまいました。クロかシロか、敵か味方か、そんな極端なカテゴリーのどちらかに簡単に放り込まれる。つまんないですね。作り手は自由に表現し、観客は自由に解釈する。その往還が社会を豊かにするのに、気に食わない表現は潰してしまっても構わないという風潮が強まっていると感じます」

    ■     ■

 ――クロかシロどころか、「野火」の日本兵は、誰と、どこで、何のために戦っているのかすらよくわかりません。

 「敵を一切映しませんでしたからね。仮に予算が潤沢だったとしても、敵を描くつもりは最初からなくて、米兵が映るのは、死にゆく日本兵にたばこをあげるとか、いいことをしているシーンにとどめました。敵を撮れば、どうしたって被害者感情が喚起され、憎悪が生まれます。だけど僕は、この映画ではそれをしたくなかった。弾は戦場にいる敵から飛んできているのか? 戦争をすると決めた人から飛んできていて、僕らはいつもそれにやられているのではないか。そんな思いを込めて、弾は闇の向こうから突然降ってくるという表現にしました」

 「敵を仕立て、それを怪物のように描き、これだけ被害を受けたのだから仕方がない、大切なものを守るために名誉をかけて闘う、そして苦戦の末に勝利する。そういうハリウッド映画が、子どものころから大嫌いでした。敵もただの人間なのに、悪魔化するのはおかしい。だけど、現在の日本の政治の論法は、ハリウッド映画と同じ構造ですね。仮想敵を作って、あいつが悪い、あいつは怖い、だから抑止力を高め、戦いに備えなければならないと」

 ――しかし多くの人は、そう言われると説得されます。「殺すのも殺されるのも嫌だ」という原初的な物言いが、歯止めになるでしょうか。

 「身体性を伴った原初的な物言いだからこそ、強いのではないですか。『国際環境の変化』といった知識に根ざすよりも、人を殺すのは絶対に嫌だという直観に根ざした方が強いし、結果的に間違いが少ない」

 「これは映画監督の大林宣彦さんが言っていたことですが、何が正義かは教育が教えてきた。それは時代やそのときの政治で大きく変化することがある。でも正気は、教えられるものではなく、確実に自分の中にあるものだと。『これが正義だ』と教えられて人を殺してしまったとしても、それを正義だとは言い切れない正気の目線が、頭の上の方で常に自分を見ているはずです。それに無理に逆らわないこと。原作の『野火』の主人公も、戦争で死ぬのが当たり前だとはまったく思っていなくて、いつも状況から一歩距離を取っている」

 「時代の熱狂や共同幻想から距離をおかないと、正気を保つことはできません。自分の正気と対話しながら、物事を深いところで把握する。嫌なことは嫌だと言っていく。その積み重ねが、いつか事態を覆す力になる。僕はそう思いたいです」

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 つかもとしんや 60年生まれ。89年に「鉄男」で劇場映画デビュー。ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門の最高賞を受賞するなど国際的評価も高い。



Posted by いざぁりん  at 02:13