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こちらです。
http://www.sankei.com/west/news/140809/wst1408090022-n1.html
(以下は、コピーです)
撃墜戦闘機からパラシュート脱出、松の木にぶら下がった米兵はピストルを向けた…豊中空襲、機体の残骸は埋められた

 昭和20年になると、大阪府豊中市6 件でも6回にわたる空襲があった。当時、国民学校6年生だった中右(なかう)吉信さん(80)は、7月30日にあった6回目の空襲の際、伊丹飛行場(現・大阪空港)を襲う米軍戦闘機「P51ムスタング」が高射砲によって撃ち落とされる光景を目撃したという。

伊丹飛行場襲う戦闘機

 中右さんが通っていた学校は、20年3月の大阪大空襲6 件をきっかけに授業が休止となったが、校庭は食料を確保するためサツマイモ畑になっていた。7月30日朝、中右さんは畑に水をまく当番だった。

 登校して間もなく、警戒警報が発令され、同級生とともに急いで自宅に向かった。東の低空に1機の米軍機が見えた。「隠れろ」。大人の叫び声が聞こえ、とっさに幅1メートルほどの農水路に隠れた。水路をふさぐ木材の間の隙間から西の空が見えた。数機の戦闘機が伊丹飛行場を襲っていた。

 そのときだった。「低空で攻撃するP51に、高射砲が命中したんです。高度を下げるためエンジンを一時止めていたからだと思いますが、P51は火を噴くこともなく空中分解しました」。次の瞬間、白いパラシュートがスルスルと開いて風で南東方向へ流されていった。「『やった』と思いましたね」。中右さんは振り返る。

埋められた機体の残骸

 翌日、同級生らから聞いた話などによると、パラシュートは豊中市岡町北の大きな松の木に引っ掛かり、足を負傷した若い米兵がピストルを構えていた。住民らが殺気立って囲んだが、憲兵が来て米兵を病院に連れていった。

 「豊中市史」によると、7月30日は米軍機約130機が午前8時半から11時ごろにわたって大阪を襲い、そのうち40機が伊丹や大正(大阪府八尾市)などの飛行場を銃爆撃した。

 伊丹上空では、墜落した2機から2人の米兵がパラシュートで脱出したが、いずれも一両日中に死亡。真田山陸軍墓地(大阪市)に埋葬された。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は、2人が死亡したのは十分な医療処置が施されなかったためだとして、軍関係者を戦犯裁判にかけた。

 墜落したP51のプロペラは、高射砲の近くに戦意高揚のモニュメントとして掲げられた。しかし戦後、GHQの追及を恐れ、機体の残骸は軍によって地中に埋められたという。

 39年後の昭和59年、豊中市教委が「戦争資料展」の展示資料にするため、埋めたとされた場所を発掘し、残骸が出土した。モニュメントとなったプロペラには赤い字で力強く「P51 撃墜 7・30」と記されていた。残骸は現在、豊中市の収蔵庫で保管されている。



Posted by いざぁりん  at 00:33