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沖縄いじめは、あってはなりません。
http://webronza.asahi.com/politics/themes/2016042700008.html?ref=sp_con_mailm_0503_32
(以下は、コピーです)
 政権へ厳しい姿勢をとる「琉球新報」の記者が東京に転勤になり、上京して賃貸物件を探したところ、勤め先を理由に入居を断られていた。沖縄出身者への差別はこれまでもあったが、辺野古への基地移転反対デモへの罵声など、最近「反沖縄」の動きが露骨になってきた。韓国や中国の次は沖縄? 本土に広がる「空気」を問う。   


Posted by いざぁりん  at 03:35
オーストラリアの大学進学率は、94%。
欧米の大学進学率は、7割。
日本は、5割。
日本は、大学進学率を上げないと、世界から後れを取ることになります。
経済的理由で進学を断念する世帯が増えれば、我が国は、将来、後進国に転落することでしょう。
高校を卒業して、正社員になることはできないので、アルバイトをしたとして、年間100万円の文系学費は、払えない可能性が高いです。
年間200万円の、理系・音楽系学費は、アルバイトでは払えませんし、高卒で幸運にも正社員になれていたとしても、払えません。
以下の投書で、無職 紺野清彦(福島県 73)氏が、「返済不要の奨学金には反対」と主張しておられますが、ご自身が働きながら大学を出られたとしても、それは当時のことであって、現在は、数字的にそれは不可能であることを、ご承知の上で、投書されたのでしょうか?
時代を考慮せずに、己の成功体験を後輩に強いることは、強者の論理に他なりません。
国の財政難の付けを、教育予算削減という形で、若者に負わせるという発想は、年長者の発想として、いかがなものでしょうか?
大学卒業後、非正規労働者になり、奨学金返済に追われた若者を、自己破産させる社会は、豊かな社会であると言えるのでしょうか?
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12341340.html?rm=150
(以下は、コピーです)
 ■返済不要の奨学金には反対  

 無職 紺野清彦(福島県 73)

 「返さなくていい奨学金制度にしてほしい」という意見がある。国の財政が危機にひんしている今、給付型奨学金はとんでもない。中卒・高卒の人も納税している。大学生の奨学金に税金を使うのは不公平で、理解を得るのは難しいのではないか。

 私はログイン前の続き働きながら工業高校の夜間部に進み、企業に就職。大学の通信教育課程でも学び、卒業した。人に頼らず、働きながら学ぶことも可能だと思う。


 ■奨学金は無利子にするべきだ

 高校教員 高柳良訓(茨城県 50)

 進路指導で痛感するのは学費の壁。標準的な私大は4年間で400万円から500万円ほど。工面できるか確認しないと、夢を見せた後に奈落の底に落としかねない。

 親の経済力が不十分なら「奨学金の活用を」となるが、大半は有利子で、奨学金とは名ばかりの教育ローンだ。せめて学生支援機構の奨学金は無利子にすべきだ。無利子なら、少しでも無理のない返済計画を立てられ、返済率も高まるはずだ。

 (2月17日付掲載の投稿〈要旨〉)

     ◇

 ■将来への投資は無利子でいい

 経営コンサルタント 齊藤紀夫(愛知県 70)

 「奨学金は無利子にするべきだ」という意見に賛成します。

 生まれた家の経済状態によっては、小さいころから将来に希望を見いだせず、努力しようとする気持ちさえ持てない人もいると思います。

 経済的な理由で若者が希望や夢を捨て、親に金が無いから教育の機会を奪われるようでは、日本の将来は暗いと思います。教育は社会の将来への投資です。すべての花が咲くとは限りませんが、投資をしないと将来は開けません。

 ただ、「国の財政が危機にひんしている今、給付型奨学金はとんでもない」「働きながら学ぶことも可能だ」とのご意見も理解できます。私も働きながら、資金をためて留学しました。

 奨学金を無利子かつ長期返済型にすれば借りやすくなり、社会の納得も得やすいのではないでしょうか。


 ■有利子で貸与型の制度は必要

 パート 加藤光彦(石川県 74)

 私は、高校で有利子の貸与型奨学金のお世話になった。長女も長男も大学に進学して利用した。子供たちは、だいぶ苦しかったようだが自身で完済した。奨学金がなければ私は中卒で就職せざるを得なかったろうし、子供たちを大学に進学させることも難しかったろう。奨学金のありがたさを実感している。

 現在、国の財政は厳しい。一方で、大学進学率は50%を超えている。そんな中で税金を財源とする返済不要の奨学金を拡大するのは、社会のためになるのだろうか。無償給付型の奨学金は、優秀で、かつ本当に学費に困る学生にはいいかもしれない。しかし、有利子の奨学金制度を残すことは必要だと思う。

 就職後に返済に困る人が多く存在し、完璧な制度だとは思わない。しかし、奨学金はそれなりの覚悟と気概を持って利用すべきではないか。


 ■税金使っても給付型が望ましい

 大学非常勤講師 佐藤くみ子(東京都 68)

 奨学金は給付型が望ましいと思います。確かに税金をつぎ込むことになります。中卒や高卒で働く人、子どものいない人の税金も含まれます。自分が恩恵を被らない事業に税金が使われる人も出てきますが、税金ってそういうものじゃないかなあと思います。

 奨学金にならば、税金を大いに使っていいのではないでしょうか。本人の資質や努力ではなく、親の経済力が進路を決定する現実があるからです。学費が高すぎるのです。

 本来は自分の道は自分で切り開くべきです。しかし自分で稼いで進学しようとしたら、アルバイトに追われて、肝心の学業の時間が確保できません。

 子どもは社会の宝です。未来への希望です。子どもが安心して十分に学べる機会を提供しなくて、どうしてこれからの世の中が成り立つでしょうか。


 ■教育は限りなく無償が理想だ

 高校教員 沼尾光弘(栃木県 51)

 本来、教育は限りなく無償で行われるのが理想だ。国際人権規約は、大学や高専などの高等教育を、段階的に無償にするよう求めている。

 この規約が国連総会で採択されたのは1966年だ。採択から50年が経った現在、大学の授業料を無償にしている国は世界にいくつもある。必ずしも豊かな国ばかりではない。

 人間が人間として生きるためには教育が必要である。大学時代に、そう教わった。だから、教育は空気のようなものでなければならない。日本が現在の社会を維持し、さらに発展させるには、意欲や能力のある若者が安心して学べる教育環境が必要である。

 せめて国立大くらいは、無償に近づける努力をすべきである。所得制限だの、奨学金だのと言っている間は、教育後進国なのである。


 ◆企業は給付型の創設を

 影山摩子弥・横浜市立大教授(経済システム論) 奨学金を無利子にしたり給付型にしたり、学費を無償化する以外にも道があると思います。企業が給付型の奨学金を設け、経済的に苦しい若者の学びを後押しすることです。

 大学を出ても正社員になれるかどうか分からず、お金を借りて大学に行くのは大変です。貧困家庭の子どもが最初から進学を諦めれば、貧困の再生産になる。若者を支援し、国をつくる人材を育てることも、企業の社会的責任(CSR)だと思います。

 大企業だけでなく、地方の中小企業もまとまれば奨学金を設けることは可能です。地域に残って活躍してくれる人材を育てれば、地域の疲弊を防ぐことにもつながります。消費者も、若者の学びを後押しする企業を、商品購入などを通じて応援する循環ができればいいと思います。
  


Posted by いざぁりん  at 03:22
こちらです。
http://digital.asahi.com/articles/ASJ4R4JDYJ3TPIHB001.html?rm=1003
(以下は、コピーです)
高知県香美市の詩人で、中江兆民研究家でもある猪野睦(むつし)さん(84)は、中江の偉大さを「思想山脈」と表現する。

 「それまで日本になかった自由・民主主義をフランスから持ち帰り、広めようとしました。政府はつぶしにかかりましたが、敗戦後、国民の前にその姿を現したと言えるでしょう」

 猪野さんによると、中江は、高知市のはりまや橋近くに生まれた。武士のなかでも最も身分の低い足軽の出身。長崎と江戸で学び、留学を志したが、土佐藩では上士や明治維新の戊辰戦争で貢献した者が優先された。明治政府の中心人物で薩摩藩出身の大久保利通に直訴し、フランス行きをかなえた。

 約2年半の間、労働者の町リヨンで「自由・平等・博愛」の空気に触れた。帰国途中、ベトナムに立ち寄り、西洋人がアジアの人々を虐げる様子を目の当たりにした。こうした経験が「小国家論」につながる。

 それは明治政府が進めた大国化への異議だった。

 外交政策を論じた「論外交」(自由新聞、1882年)で、戦争は道義的に認められないと否定したうえで、小国が大国になっても国を保てないと富国強兵策を批判した。そして「小国は信義に基づく外交に徹せよ」「隣国には兵力で干渉すべきではない」などと主張した。

 高知市立自由民権記念館の前館長、松岡僖一さん(70)は解説する。

 「大国を目指せば、税負担など国民の犠牲は大きくなります。国が小さければ小さいほど民主化は進み、人権が守られるという考えだったんですね」

 87年12月、他の民権家600人近くとともに皇居の約12キロ外への退去を命じられた。大阪に移った後、高知県馬路(うまじ)村を訪れた時も、尾行の密偵が険しい山道までつきまとったという。死後も、昭和の敗戦まで、限られた著作しか出版されなかった。

 与えられた権利は、与えた者の都合でいつか返さなければいけなくなる。そんな考えから明治憲法改正をめざし、最初の帝国議会選挙で大阪から立候補して当選した。民権派が過半数の議席を得たが、政府側に寝返る議員が出たため辞職する。

 末期がんで余命1年半と告げられた後、痛みや呼吸困難のなか「一年有半」「続一年有半」を出版した。伊藤博文や山県有朋らを「死ぬのが一日早ければ、一日国家の益となる」とこき下ろした。そして日本人をこう評した。「利害に明るく理義(道理と正義)に暗い。事に従うことを好み、考えることを好まない」

■新聞葬 弾圧への抗議

 柩(ひつぎ)には発行禁止となった新聞が納められた。「葬列」は高知市中心部を発ち、5、6キロ東の五台山に向かった。

 1882(明治15)年7月16日の「新聞の葬式」。政治結社・立志社の機関紙「高知新聞」に対する言論弾圧への抗議行動を、火葬地となった五台山ふもとの説明板が伝えている。

 南国の真夏、午後2時。紋付きの正装に忌中笠をかぶった民権活動家たちが先頭に立ち、僧、記者、愛読者らが続いた。約5千人の列は長さ1キロ以上に及んだらしい。

 2年前に創刊し、すでに5回の発行停止を受けていた。停止の間、民権派は「土陽新聞」「高知自由新聞」と題字を変え「身代わり紙」を出した。警察に捕まった編集責任者の代役を次から次へと立て、同じ印刷設備で発行を続けた。そして「高知新聞」の処分明けにあわせ、次は「身代わり紙」が政府批判を書き発行停止を受ける。そんな「抗戦」を繰り返した。

 市立自由民権記念館の松岡僖一(きいち)・前館長(70)は話す。「当時、運動を広げる媒体は新聞しかありません。投獄の危険を覚悟して発行を続けました」

 松岡さんによると、明治初期、発行され始めたばかりの日刊新聞は、政府が買い取り、地方に分配する方法で援助した。政府に都合の悪いことは書かない「御用新聞」だった。ところが、英国人発行の邦字紙だけは74年、板垣退助らが民撰(みんせん)議院設立建白書を提出したことについて報じた。

 「建白書は民権運動開始を告げる文書です。報道された瞬間から論争が始まり、政治運動に発展していきました」。それを契機に政論紙が続々と登場した。運動の拠点、高知県内では各地で開かれた夜学会の教材に新聞が使われた。士族中心の運動のすそ野を広げるためには、新聞発行を続けなければならなかった、と松岡さんは言う。

 「高知新聞葬」の5日後、今度は「高知自由新聞」が発行禁止になった。民権派は7月26日、再び「新聞の葬式」を催した。参列者は前回の2倍、1万人に膨れあがったという。

 この時、葬列を見送った人は「幾万とも数知れず」と伝えられた。「陽暉楼(ようきろう)」から「得月楼(とくげつろう)」と名を変えた妓楼(ぎろう)の芸者25人が、参列を願い出たがかなわず、沿道の人波に加わったとの記録もある。

 それにしても「新聞葬」には、どこか権力を振りかざす者への「ちゃかし」を感じる。

 松岡さんも認める。

 「だからこそ運動は長く続いたんですよ」

■「馬鹿林一座」と命名

 馬鹿林(ばかばやし)あけみさん(47)と馬鹿林かおりさん(58)。そんな「芸名」の女性2人組が高知市にいる。2007年以降、市立自由民権記念館の行事などで時折、民権紙芝居を披露する。

 和服に袴(はかま)。講談師のような語り口。扇子で演台をたたき、小気味よく物語を展開していく。例えば、1883(明治16)年、東京にできた鹿鳴館での舞踏会についてはこんな感じだ。

 「猿まねの、バカ騒ぎを目の当たりにした心ある人たちは憤慨し、欧化政策の害毒が国を滅ぼすと受け取りました」

 この芸名は自由民権運動全盛期、坂崎斌(さかん)(紫瀾〈しらん〉)が名乗った「馬鹿林鈍翁」にあやかった。以前、記念館職員として展示の説明をしていた2人は、坂崎に「転んでもただでは起きない」気骨を感じていたと言う。

 記念館の資料によると、坂崎は土佐藩医の子として生まれた。長野県の松本裁判所などに勤めた後、民権運動に身を投じた。80年には立志社機関紙の高知新聞主筆に就き、運動を始めた士族らに対し、かつて支配階級に属したことへの自己批判を迫る論説を発表した。

 国民参加の政治を目指す以上、自由民権思想や近代立憲政治を広く理解してもらわなければならなかった。士族や地方の名士が中心だった運動のすそ野を広げるのに、坂崎は大きな役割を果たしたといっていい。

 新聞の論説を書くかたわら、民権踊り、民権都々逸も創作した。81年12月、高知県内で1年間、政治演説禁止の処分を受けると、すぐに坂崎は、講談師として舞台に上がる許可を得て「馬鹿林一座」をつくった。その命名からして取り締まり当局をおちょくっている。

 講談2日目。監視の目を光らせ続けていた警察は、天皇を侮辱したとして舞台を中止し、観客を解散させた。坂崎は「不敬罪」で重禁錮3カ月、罰金20円の刑に。その上告で保釈中には、坂本龍馬一代記「汗血千里駒(かんけつせんりのこま)」の新聞連載を始めた。入獄で中断した期間を含めて約8カ月、龍馬の遺志は民権運動が引き継いでいる、と読者を引きつけた。

 だが、運動が広がった結果、例えば自作農と小作農といった対立する利害関係も出てきた。内部分裂が進んだところに、日清戦争(94~95年)の勝利で天皇中心の国民国家が完成。運動は完全に潰(つい)えた、とされる。

 そのころ、坂崎は従軍記者として国民の戦意をあおる記事を書いていた。生涯で15あまりの新聞社を渡り歩いた言論人としての歩みは、運動の盛時と末路をも映している。

■遺言は「世界恒久平和」

 日本の平和運動の源流は日清戦争前にさかのぼる。

 日露開戦に異を唱えたキリスト教思想家の内村鑑三でさえ、日清戦争は「正義の戦い」と支持した。それだけに時流に同調しなかった人々の存在は尊い。

 富山県黒部市出身の加藤万治(かずはる)はその一人。日清開戦5年前の1889(明治22)年、「日本平和会」を立ち上げた。92年には機関誌「平和」を創刊、発行兼編集人を務めた。ただ、その名を知る人は郷里でも少ない。

 日本平和会員の大半はキリスト友会(フレンド派)を信仰していた。友会が87年に創立した学校法人・普連土(ふれんど)学園(東京都港区)に加藤の足跡を訪ねると、財務理事で元教諭の大津光男さん(75)から「日本最初の平和運動には欠かせない人物」と教えられた。

 大津さんは今、「日本の平和運動と新渡戸稲造」という文章を執筆している。国際連盟事務次長を務めた新渡戸も友会信者だが、大津さんの原稿には加藤の名前も出てくる。

 日本平和会の結成は、英国人信者の東京講演がきっかけだった。普仏戦争(70~71年)の惨状を説明し、国際的な紛争は仲裁機関で解決すべきだと説いた。講演3カ月後、加藤や詩人の北村透谷らが英国の組織にならった。北村は、暴力による政府打倒に一部が走った自由民権運動から離脱していた。

 なぜ、加藤らは講演に引きつけられたのか。北村の作品研究から加藤に行き当たった三重大学教授(日本近代文学)の尾西康充さん(49)は分析する。

 「貧富の差が拡大し、自由民権運動も行き詰まっていた。政府の富国強兵策との対抗軸を模索していたところに、決して人を殺し、傷つけてはならないとする絶対的平和や平等を唱える考えに出会い共鳴したんです」

 江華島事件(75年)など、朝鮮半島への進出政策がいずれ対外戦争を引き起こす、との危機感もあったのかもしれない。

 「平和」創刊号は「平和の文字はなはだ新たなり」と書いた。これからの戦争は都市を荒野に変える破壊戦争で、その防止が必要などと訴えた。だが、財政的な問題もあり93年5月に終刊。日本平和会も翌年始まった日清戦争を会員の大部分が支持したため解散に追い込まれ、友会そのものが分裂した。

 だが、加藤は非戦を変えず友会の再建に努めた。平和運動にも関わり続けた。満州事変翌年の1932年、「世界恒久平和」という遺言を遺(のこ)し、世を去ったという。
  


Posted by いざぁりん  at 02:59
明治憲法への回帰は、違憲です。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160503-00010004-bfj-pol
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東京・永田町の国会議事堂にほど近い憲政記念館で5月2日、改憲を目指す集会が開かれた。出席者のトップは98歳になろうという元総理大臣・中曽根康弘氏。自民、公明だけでなく、野党からも保守派議員、経団連や商工会議所の幹部らも駆けつけ、次々とマイクを握った。憲法が争点の一つとなる参院選が迫る中、何が語られたのか。

受付で封筒を手渡された。中には資料や大会決議案とともに、自民党が作った憲法改正のPR漫画が同封されている。

漫画では、4世代が同居する一家が憲法について調べ、その問題点を指摘する。「憲法はその国の在り方」「家訓みたいなもの」「(現在の憲法では)個人の自由が強調されすぎて、家族の絆や地域の連帯が希薄になった」

憲法学が強調する、「憲法は権力の暴走を防ぐためのもの」という立憲主義的な考えとは違った主張が展開されている。

「明治憲法にかえれ」 改憲派集会で本当に語られていること

「基本は明治憲法にかえる」

会場の中に入る。定員496人は満席になっており、立ち見も出ていた。ゴールデンウィークの谷間、平日の昼間。参加者はほとんどが高齢だったが、若者もちらほら見かける。主催者側に聞いたところ、参加者は第2会場もあわせると1200人。ほぼ例年並みという。

強硬な保守論客として知られる、渡部昇一氏の講演で会場は沸いていた。

「いまの憲法は憲法ではなく、その性質上、占領政策基本法」

「(この体制が)25年、50年が続けば日本人は精神的な牙を抜かれて、悪く言えばかつてのインディアンみたいに大人しくなるだろうとアメリカは考えたに違いない」

「いまの憲法の足りないところを変えるようでは、ごまかしが残る。私は明治憲法にかえるべきだと思うんです。明治憲法は欠点はあったにしても、有色人種で最初に作られた記念すべき憲法です」

渡部氏の主張はさらに続く。

「あらかじめ立派な憲法草案を作り、ガッツのある首相が『明治憲法にかえります』と宣言し、明治憲法に改正条項に則り、草案通りに新憲法を発布すればいい。基本は明治憲法にかえること。ごたごた、改正とか言っている暇はない」

会場からは、笑いが起こった。

この日、最大の拍手

講演が終わり、壇上に椅子が並ぶ。来場者からみて、左側、ジャケットにひときわ大きな白い花飾りをつけた中曽根氏の姿があった。

右側には自民、公明、民新、おおさか維新、日本のこころを大切にする党、経団連、商工会議所、青年会議所の代表者がずらりと並ぶ。

壇上に雅楽師の東儀秀樹さんが上り、国歌が演奏された。全員が一斉に起立し、壇上に掲げられた国旗に体を向ける。1分17秒。静かな会場に国歌が響きわたる。

この日、一番大きな拍手が起きたのは、中曽根氏が紹介される場面だ。「中曽根先生は今月27日のお誕生日で満98歳になります」

「え~」と驚く女性の声とともに、大きな拍手が起きる。
.

中曽根氏は杖をつき、階段の上り下りには介助者が必要だが、自分の足で立つ。白いペーパーを取り出し、あらかじめ用意してきた挨拶を読み上げる。

「来年は憲法施行から70年となる。現憲法がグローバル化の中で、日本民族の民族たる意味を示しうるのかどうか。国を取り巻く状況変化に十分に対応しうるかどうかといったことが従前にも増して、大きく問われる」。声は力強く、明瞭だ。

「憲法改正による障害をなおざりにすることなく……」。痰が絡んだのか、声が細くなる。咳払いをし、続ける。声は再び、強さを取り戻す。

「丁寧な説明と対応をもって問題を一つ一つ、解決していかないといけない。現下、内閣は憲法改正への意欲を示し、その実現のために取り込もうとしている。我々はこれを大きく支持する」

「我々が目指す憲法とは、自由と民主主義のもとに民族の歴史、伝統、文化を据え、世界を見渡し、国際環境に対応しながら、国家の進路を切り開くものであります。それは新たな国家像の希求に他ならず、国家的理想への前進でもあります」

ペーパーを丁寧に折り、ジャケットの内ポケットにしまおうとしたが、一度でしまうことはできない。2回、3回と同じ動作を繰り返し、しまうことができた。このまま、壇上を降りた中曽根氏は、参加者に一礼し、会場を後にした。


実は足並みがそろっていない改憲派

各政党から挨拶が続く。自民からは「新憲法は党是」と従来からの主張が繰り返された。その一方で、公明は自衛隊を巡る考え方をとっても、「党内で議論が続いている」現状を報告する。

民進の松原仁議員は「憲法は改正しなければいけない。前文から問題がある。裏切られた前文だ。伝統文化をどう憲法に書き込むかは極めて重要な試金石。党内でも同志を募る。ともに頑張りましょう」と力強く宣言した。

会場の盛り上がりに対し、改憲勢力と目されている、おおさか維新からは「『美しい日本を取り戻す』とか『日本の伝統を取り戻す』といった精神的、道徳的、情緒的議論に偏重するとすれば、護憲派に付け入る隙を与えてしまうのではないか。憲法改正をイデオロギー論争にしてはいけない」と釘をさす発言があった。

そうかと思えば、直後に登壇した「日本のこころを大切にする党」の中山恭子代表は「なぜ、日本が情けない国になったのか。考えを突き詰めると日本国憲法に行き着く。独立国家の憲法ではないことを認識すべき」という保守派におなじみの主張が出る。

「改憲が必要」以外の一致点がどこにあるのだろうか。
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かつての支持者から批判される安倍首相

足並みの揺らぎは、政党間だけでなく保守論壇も同じだ。安倍政権には、かつての支持層だった保守論壇から批判の声もあがる。

安倍氏を支持してきた保守派論客、中西輝政氏は「さらば安倍晋三、もはやこれまで」(「歴史通」2016年5月号)と題した論文で、戦後70年に発表された「安倍談話」を自身の歴史認識と違うと批判する。

ある保守派の論客は、BuzzFeed Newsの取材にこう語った。

「(中西氏は)状況をまったくわかっていない」と批判する。いわく「改憲には政治的な妥協も必要だが、戦後70年かかった主張を実現する時期が迫っている。この時期に内輪揉めを印象づけるような批判をしてはいけない」
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「いまは千載一遇の好機」改憲派の現状認識とは…

安倍政権に近く、多くの憲法学者が違憲とした安保法を合憲と主張した改憲派の憲法学者、百地章氏にも話を聞いた。

「いまは改憲の千載一遇のチャンスだ。これ以上のチャンスはもうないかもしれない。改憲がもうすぐそこまできている。参院選で改憲勢力で3分の2を取り、一致しやすいところから改憲に着手すべきだ」と語った。

「改憲はすぐそこ」。その認識は、集会の参加者に共有されていたようだ。万雷の拍手とともに承認された大会決議には、こんな文言が盛り込まれていた。

「関係者の努力により、新憲法制定の障害はほとんど取り除かれ、今後いつでも改正作業に取りかかれる状況にあることを慶賀したい」

  


Posted by いざぁりん  at 02:59
自衛隊は、違憲です。
直ちに解散させなければなりません。
自衛隊があれば、国が守れて、防災出来ると考えることの方が、思考停止です。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160503-00000090-jij-pol
(以下は、コピーです)
 安倍晋三首相は、改憲派の団体が東京都内で3日に開いた集会「公開憲法フォーラム」にビデオメッセージを寄せ、「今の憲法には自衛隊という言葉はない。本当に『自衛隊は違憲かもしれない』と思われているままでいいのか」と述べ、憲法9条の改正に意欲を示した。

 
 この中で首相は、複数の世論調査の結果から、憲法学者の約7割が自衛隊は違憲の可能性があると考えている一方、国民の9割が自衛隊を信頼している、と説明。自衛隊を憲法に明記することについて「国民的な議論に値する」と強調した。

 その上で、「憲法に指一本触れてはならない、議論すらしてはいけない、といった思考停止の姿勢に陥ってはいけない」と指摘。「今後ともこれまで同様、憲法改正を訴えていく」と語った。   


Posted by いざぁりん  at 02:58