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安倍内閣が、環境破壊をしています。
報道は、こちらです。
https://www.youtube.com/watch?v=1ygqclt4B7Q  


Posted by いざぁりん  at 00:52
右翼の櫻井よしこ氏。
活躍する女性は、右翼?
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190503-00000543-san-pol
(以下は、コピーです)
 櫻井よしこ氏は3日、都内で開かれた改憲派の集会で講演し、「令和の時代、立派な日本国としての歩みをさらに強めなければならない。憲法改正なくして、わが国の本当の意味の再生はない」と述べた。発言の詳細は次の通り。

 「(先の大戦の)敗戦のとき、私たちは日本国の国柄を根底から潰されてしまいかねなかった。皇室が廃止され、わが国の国柄が全く違うものに作り替えられるような危険が現実にありました。もし、そのようなことになっていたら、今の日本国はあり得ません。この危険を避けるために、先人たちは涙をのんで、本当に無理無体な占領政策を受け入れました。その筆頭が現行憲法です」

 「だれが読んでも現行憲法は日本民族の憲法ではない。どこに日本の文化の薫り、伝統の片鱗(へんりん)があるのでしょうか。まったく別物です。それを承知でこれを受け入れました。そして、ようやくわが国は天皇陛下や皇族、皇室を存続させることができました。私たちは先人たちがどんな悔しい思いをして、今の憲法を受け入れたか。それを忘れてはなりません」

 「にもかかわらず、(現行憲法制定から)70年以上がたった今、私たちは一文字も憲法を変えることができていません。あまつさえ、世の中には今の憲法で良いんだという声が、まだ半分近くある。先人たちがどんなに悔しい思いをしたのか。それだけでなく、どれだけ苦労して、敗戦のあの荒廃の中からわが国を守り通そうとし、そして、守ってきたか。この貴重な体験を本当に思い出し、今こそ令和の時代、新しく大和の道を歩もう。私たちは私たちなんだ。日本は日本なのである。立派な日本国としての歩みをこれからさらに強めなければならない。令和に込められたこの意味を、もう一度、日本国憲法の悲しくも悔しい歴史と重ね合わせて考えるべきときだと思います」

 「『憲法改正のために党を作るんだ』。それが自民党の立党の精神です。自民党を支える人々の気持ちはその立党の精神を支えているのではないですか。しかし、自民党は衆参両院で改憲勢力と呼ばれる議席を3分の2以上持ったことは安倍政権までありませんでした。ですから、憲法改正ができなかった。今、初めて自民党・与党は憲法改正することができる状況にあるのです」

 「ならば、なぜやらないのか。なぜ憲法審査会は全く働かないのか。自民党だけではないです。公明党もそうです。日本維新の会もそうですよ。みんなそうです。そして、その他の野党は、もっとそうだと思います。憲法改正なくして、わが国の本当の意味での再生はないです。昭和20年に敗戦を迎え、22年にこのくだらない憲法が作られた。今、もう一回立て直すときなのです」

 「最終的に(憲法改正を)決めるのは国民の私たちだ。この国の新しい未来を構築していくためには、なんとしてでも憲法改正を発議していただきたい。民主主義を信じ、国民を信じるための議論をこそ、政治が発信してほしい。そうすれば、本当にまじめで国を思う日本国民が一生懸命に考えて、この国の未来のために一番良い選択をする。その能力と意思を私たちは持っています。憲法審査会を一日も早く動かしていただいて、そして日本国の新たな可能性を、素晴らしい令和の時代を一緒に切り開いていきたいと思います」  


Posted by いざぁりん  at 00:30
安倍総理は、移民を、使い捨ての労働力として、扱っているのです。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190504-00000030-mai-life  


Posted by いざぁりん  at 00:29
真実が、解明されなければなりません。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190503-00000036-mai-eurp
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ソ連崩壊につながった1989年の東欧革命で唯一、多数の市民の流血を伴ったルーマニア革命。チャウシェスク独裁政権崩壊後に発生し、850人以上が犠牲となった銃撃戦について、後に政権を握るイリエスク元大統領(89)の元側近が「テロリストの攻撃」をでっち上げて引き起こしたものだったと事実上認める供述をしていたことが、同国検察関係者への取材で判明した。イリエスク氏ら元共産党幹部や軍はこの銃撃戦を機に新政権を樹立。革命は市民デモに乗じて政権を奪取した「盗まれた革命」との見方があるが、その説を有力視させる証言だ。

 ルーマニア革命を巡る経緯には不明な点が多く、中でも銃撃戦の発生原因は最大の謎とされてきた。同国検察は先月8日、イリエスク氏を偽情報を流して銃撃戦の混乱をあおったとして人道に対する罪で起訴。今後の公判で元側近の供述など捜査の詳細を明らかにする方針とみられる。

 問題を長年捜査したダン・ボイネア元軍検事長(68)によると、この供述を行ったのは革命後のイリエスク政権で国防相となるスタンクレスク将軍(2016年に死亡)。革命では89年12月22日正午ごろ、市民デモの拡大でチャウシェスク氏が共産党本部から逃亡。だが、同日夜の銃撃戦の発生で市民らは街頭から消え、イリエスク氏らが結成した「救国戦線評議会」が全国の党施設や役所を占拠し全権を握った。イリエスク氏らは当時、「外国人テロリストが攻撃してきた」として軍とテロリストとの銃撃戦と説明していたが、スタンクレスク氏は検察の調べに「テロリストがいないことは最初から知っていた」と供述したという。

 また、検察側が入手した「軍人日記」と呼ばれる軍内部の日誌には、スタンクレスク氏が兵士らに主要施設の占拠を指示し「不審者や抵抗者がいれば銃撃しろ」と命じていたと明記。軍が数日間で1250万発の銃弾を使用、市民の家屋を戦車やヘリコプターで銃撃した様子も記録されていた。ボイネア氏は「混乱を生むことで主要施設から市民を排除し、軍を後ろ盾にした政権奪取を容易にする狙いがあった」と指摘した。

 一方、イリエスク氏は疑惑への関与を否定。毎日新聞は昨年12月と今年2月、イリエスク氏に取材を申し込んだが「捜査中」を理由に拒否された。

 イリエスク氏は革命直後の90~96年のほか、00~04年にもルーマニアの大統領を務めた。

 ◇ルーマニア革命

 1989年12月16日、西部ティミショアラでハンガリー人牧師の追放処分に市民が怒り、軍と衝突、軍の発砲で犠牲者が出た。混乱は全土に広がり、同21、22日に首都ブカレストで大規模デモが発生。24年以上独裁体制を敷いたチャウシェスク大統領夫妻(当時)は同22日昼、共産党本部から逃げたが当局に逮捕され、25日に銃殺刑となった。革命を巡る死者は少なくとも約1100人で、このうちチャウシェスク氏逃亡後に起きた銃撃戦の混乱で850人以上が犠牲になったとされている。  


Posted by いざぁりん  at 00:28
真実が、解明されなければなりません。
報道は、こちらです。
https://mainichi.jp/articles/20190503/k00/00m/030/161000c?inb=ys
(以下は、コピーです)
 イリエスク元大統領らによる「革命の乗っ取り」を示唆する同氏元側近の供述が明らかになったルーマニア革命。国内では革命後約30年に及び市民団体らが「真相解明」を求め司法当局に働きかけを続け、検察は紆余(うよ)曲折を経てイリエスク氏を起訴した。ただ、関係者の多くが死去するなど公判での立証は容易ではなく、イリエスク氏からの「圧力」を懸念する声もある。

多くの関係者死亡、元大統領の圧力懸念

 「革命の真実を明らかにしないとならない。そのために私は人生をささげてきた」。市民団体「1989年12月21日協会」のテオドール・マリエシュ代表(56)は強い口調で語る。

 マリエシュさんらは革命直後から捜査を求めたが、90年代前半には進展はなかった。革命後もイリエスク氏ら元共産党幹部や軍が政権を握ったため、旧体制の権力構造が残り、イリエスク氏の意に反した捜査は難しかったとみられる。

 捜査が始まったのは96年に初の非共産党政権が発足してからだ。捜査を任されたのはダン・ボイネア元軍検事長(68)だった。

 2006年、ボイネア氏はイリエスク氏らについて、「テロリストを作り出し、市民の殺害に関与した」として人道に対する罪で起訴状を作成。だが、イリエスク氏は「(軍人の訴追を担当する検事である)ボイネア氏の起訴は無効」と憲法裁判所に提訴した。07年、憲法裁は訴えを認め、その後に別の検事が「捜査期間(15年)が過ぎた」として、捜査を終結させた。

 マリエシュさんはルーマニアの07年の欧州連合(EU)加盟を機に再び動き出す。欧州人権裁判所に捜査資料の開示を求めたうえ、「当局が適正な捜査をせず、捜査を終結したことは欧州人権条約に反する」と訴えたのだ。11年、人権裁は捜査が不適切だったと認定し、16年に捜査が再開。4月8日、検察は20年以上に及ぶ捜査を経て、イリエスク氏を革命時に起きた銃撃戦の混乱をあおったとして人道に対する罪で起訴した。

 検察はイリエスク氏に対する今後の公判で、当時の軍内部資料や元側近のスタンクレスク将軍の供述の詳細な内容を明らかにし、銃撃戦への関与など革命を巡る経緯の全容解明を目指すとみられる。ただ、関係者の大半は高齢化したり、死亡したりするなど立証のハードルは高い。米メリーランド大のブラディミル・ティスマネアヌ教授は「イリエスク氏はこの問題を避ける高い能力がある」と述べ、司法への圧力を懸念している。

捜査突破口に「軍人日記」

 ルーマニア検察がイリエスク氏に対する捜査の突破口としたのは、「軍人日記」と呼ばれる軍内部の日誌だった。

 ルーマニア革命は1989年12月22日、チャウシェスク元大統領がヘリコプターで逃亡したことで「達成」されたはずだった。だが、その後に850人以上が犠牲となった銃撃戦が起き、混乱のさなかにイリエスク氏ら元共産党幹部や軍が結成した「救国戦線評議会」が全権を握った。

 軍人日記には、イリエスク氏の元側近だったスタンクレスク将軍がチャウシェスク氏逃亡後、いったん撤退した軍兵士らに対し、「外国からテロリストが侵入した」として全国の党施設や役所の占拠を指示したことをはじめ、軍の戦闘の内容や部隊の配置、撃った弾の数などが克明に記録されていた。日記を基に検察が捜査した結果、死者の8割は軍人に銃撃され、そのなかに「テロリスト」はいなかった。検察はこうした状況証拠を積み上げ、スタンクレスク氏から「テロリストがいないことは最初から知っていた」とする供述を引き出したとみられる。

   ◇

 後日、連載「『壁』と世界・第2部」で、革命後のルーマニアについて取り上げる予定です。

イリエスク元大統領

 1930年、ルーマニア南部の労働者の家庭に生まれる。53年に共産党に入党。若くして党幹部に抜てきされるが、71年にチャウシェスク元大統領に疎まれ、左遷。89年の革命時は技術系出版社に勤務していた。革命で「救国戦線評議会」を結成し、議長に就任。90年に大統領に当選した。96年の選挙で敗れるが、2000年に大統領に返り咲き、04年に退任した。
  


Posted by いざぁりん  at 00:27