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堀江氏の主張は、こちらです。
*「ほんとそんな(デモしている)時間あったら働いて納税しろや。税金泥棒め」
*「このデモに参加してる奴の大半は実質的に納税してる額より給付されてる額の方が多いんだよ。それを税金泥棒って言ってんだよ」
*「プロ市民みたいなの。気持ち悪い」
*「結局、安倍総理が嫌いな人たちが、安倍さんを政権から降ろしたいところの、ああいう人たちがメインなの」
*、「年金なんて、昔から終生賦課方式に変わった時点でヤバイ。少子化になったら、給付される年齢がどんどん後にしないと成り立たない。とはいえ、年金の運用はちゃんとしている。増やしている。が、過去の人たちがつくった責任。グリーンピアとかつくって食い物にしてきた人たちとか、年金のお金を無駄遣いして大変なことやって来た人たちの責任を被って頑張ってやってきているのに、そんな人たちに文句を言っても仕方がない」
*、「だいたい俺を叩いてどーすんだって思うけどね。年金行政に関わってるわけじゃないし政治的な権力持ってるわけでもない。年金システムの改善がしたいのなら俺に絡まず政治家に直接話しにいくといいよ。デモなんかするよりよっぽど効率的。ツイッターで気軽に絡める俺に絡んで満足してんなボケ」
以下は、反論です。
*人が何をするかは、自由です。
*納税は権利です。
*税金は、富の再分配によって格差をなくすためにある訳ですから、納税額よりも受給額が多いからと言って、税金泥棒になるわけではありません。
*市民に、プロもアマもありません。
*安倍総理が好きな人にとっても、6000万円から1億2000万円の貯金を持つことは不可能ですから、そろそろ安倍総理が嫌いになります。
*国民には、請願の権利があります。
*堀江氏に絡んで、満足してはい終わり、という人は居ません。
*デモ隊と現在の受給者を税金泥棒と罵る堀江氏は、炎上して名前を売りたいのでしょう。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190624-06240258-nksports-ent



  


Posted by いざぁりん  at 20:06
ダブル選挙、消費税先送り、となるでしょう。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190623-00010035-nshaberu-soci  


Posted by いざぁりん  at 00:33
年金は、あてにならない、ということになると、60歳(夫婦)の段階で、1億2000万円の貯金が必要です。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190623-00010035-nshaberu-soci  


Posted by いざぁりん  at 00:32
無年金夫婦の場合は、1億2000万円必要です。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190623-00015419-jprime-soci
(以下は、コピーです)
 40代の主婦は、

「麻生さんが報告書を受け取らないことで、不足分2000万円の真実味が逆に増した」

 医療従事者の30代女性は、

「貯金もないし将来に不安しかないので長生きしたくない」

 と、お先真っ暗の表情だ。

 経済ジャーナリストの荻原博子さんは、

「報告書は国民に投資をさせたいという趣旨。金融庁は投資をすすめるための道具として年金を持ち出した」
.

 ところが、国民の怒りを買うハメに。

「はからずも報告書では年金制度の破綻や老後の生活費の不足を明かした。人生100年時代、100年安心と言いだしたのは安倍政権だからウソがバレたかたち」

 とジャーナリストの大谷昭宏氏。大妻女子大短期大学部の玉木伸介教授(経済政策)も、「報告書に書かれていることに新しいことはない」

 と前置きし、

「何十年もの間、給料が上がらないなど国民のフラストレーションに火がついた」

 と読み解く。失われた20年、アベノミクスで恩恵を受けられなかった層、非正規雇用者、低所得者層、無貯蓄層の怒りがスパークした。

  


Posted by いざぁりん  at 00:31
老後破綻が続出します。
報道は、こちらです。
https://www.moneypost.jp/531834
(以下は、コピーです)
 改元と同時に「令和の年金改悪」が始まる。そのメインターゲットは団塊ジュニア(1971~1974年生まれ)だと考えられる。現在48歳(1971年生まれ)の団塊ジュニアから年金70歳支給になるように、支給開始年齢を68歳→70歳→75歳へと段階的に引き上げる。その手始めに導入されるのが「75歳選択受給」だ。

 「平成の改革」では、男性サラリーマンの年金支給開始年齢が2001年から段階的に引き上げられてきた。今年58歳の1961年生まれの世代から完全に65歳支給に移行し、激変緩和措置として65歳前にもらえる厚生年金の特別支給もなくなる。完全移行は2026年の予定だ。

 では、次の70歳への支給開始年齢の引き上げはいつから始まるのか。実は、民主、自民、公明3党合意で消費税10%増税を決めた7年前の「税と社会保障一体改革」の際、社会保障審議会年金部会では68歳への支給年齢引き上げの具体的なスケジュールが議論された。

 当時、厚労省が年金部会に提出したプランには、65歳支給の完全実施を早めて「2024年」から上げていく案と、従来の引き上げペースのまま2026年に65歳支給に移行した後、そのままのペースで「2029年」から66歳、67歳へと2年に1歳ずつ引き上げていく案が示されている。

 このうち、団塊ジュニアから70歳支給になるのが後者の案だ(実施が7年間遅れたために前者のスケジュールは今からでは間に合わない)。

「団塊の次に人口が多い団塊ジュニアが年金をもらい始める前に70歳支給に引き上げる」という「令和の年金改革」の狙いからみると、この2029年開始のスケジュールを基本に70歳→75歳へと支給開始年齢を引き上げていく議論が進められると予想される。

 年金支給が66歳に遅れるのは1963年生まれ(今年56歳)の世代で、前述のように団塊ジュニアの1971年生まれは70歳、さらに今年38歳になる1981年生まれ以降は「75歳」まで年金はもらえないことになる。

 支給開始が遅くなれば、当然、年金総額も減る。年金月額16万円のケースでは、受給開始年齢が70歳に引き上げられると5年分の年金960万円を失い、75歳なら10年分1920万円の損失になる。

団塊世代も700万円減

 すでに「年金を受給している世代」や、これからもらう「65歳受給世代」も年金減額からは逃れられない。

 年金生活者はインフレに弱い。現役世代は景気が良くなれば賃上げがあるが、年金はそうはいかない。そのため、年金制度には毎年の物価上昇と同じだけ年金支給額を増額し、インフレでも生活が苦しくならないようにする「物価スライド」というセーフティネットがあった。

 ところが、“100年安心”を掲げた「平成の改革」でこのセーフティネットが壊された。年金生活世帯を標的に、物価が上昇すれば毎年0.9%ずつ年金を目減りさせる「マクロ経済スライド」という仕組みが導入されたのだ。物価が上昇し、長寿で年金受給期間が長いほど年金が減らされていくのである。

 表は「人生100年時代」に、年金受給世代がマクロ経済スライドでどれだけ年金額が減らされるかを生まれた年ごとに試算したものだ。今年70歳の団塊世代(1949年生まれ)がこれから100歳まで年金を受給すれば、本来の受給額に比べて700万円近い年金が失われる計算だ。

 団塊ジュニア(1971~74年生まれ)はさらに悲惨だ。マクロ経済スライドに支給開始年齢引き上げが重なるため、たとえば1971年生まれの人が100歳まで受給した場合の年金減額は、2300万円を超える。これが75歳受給の世代になると3000万円超となるのだ。

 そのうえ、受給開始が66歳、67歳と引き上げられていけば、それまで再雇用などで働いて食いつながなければならないため、年金加入期間が長くなって保険料も余分にかかってしまう。
  


Posted by いざぁりん  at 00:30
なので、以下の記事は、怪しい投資話を推奨しています。
投資話には、乗らない方が良いです。
年金問題は、ベーシックインカムか社会主義、で解決できます。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190621-00173170-bizspa-bus_all&p=2  


Posted by いざぁりん  at 00:29
これが、戦争です。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190622-00000006-ryu-oki
(以下は、コピーです)
沖縄戦で本島における日本軍の組織的戦闘の終了後、久米島に配備されていた日本軍にスパイ容疑で虐殺された仲村渠明勇さんに命を救われた少年がいた。現在、東京都練馬区で暮らす渡嘉敷一郎さん(80)だ。渡嘉敷さんは久米島に上陸した米軍に捕らわれるのを恐れて池に飛び込んで命を絶とうとしたところ、仲村渠さんの呼び掛けで思いとどまった。同じ久米島出身の妻政子さん(80)が住民虐殺の歴史を語り継ぐ活動を続けており、一郎さんも参加して語り始めた。本紙に体験を語るのは初めてで「一番怖かったのは日本兵だった」と振り返る。

 沖縄本島で捕らわれた仲村渠さんは1945年6月26日、米軍と共に久米島に上陸し、住民に投降を呼び掛けていた。日本のポツダム宣言受諾後の8月18日、島にいた日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)の兵士に妻子と共に殺された。

 渡嘉敷さんは旧具志川村(現久米島町)仲泊の出身で、戦争中は50~60人で避難生活を送っていた。「ヒージャーミー(米国人)に殺される」との話が住民の間に広まっていった。米軍上陸後、母親の親戚と一緒に逃げていた渡嘉敷さんは、池に飛び込もうとしていた矢先、「もう戦争は終わったよ。もう死ぬことはないぞ」という仲村渠さんの呼び掛けを聞いた。「あれは西銘(集落)の明勇だ」と誰かが叫び、われに返った渡嘉敷さんは投身を思いとどまった。

 当時、島では日本軍の隊長からは「山に上がって来ない者は殺す」との命令が下されていた。上陸してきた米軍からは、日本兵が軍服を捨てて住民にまぎれこんでいることから「家に戻りなさい。戻らなければ殺す」と投降の呼び掛けが出ていたという。どちらを選択しても死を迫られるという苦しい状況に住民は置かれていた。

 渡嘉敷さんは「明勇さんは案内人として米軍に連れてこられていた。村人が隠れているところを回って、投降を説得するのが役割だった。明勇さんに命を助けられた。島の人にとっては恩人。それを、逃げるところを後ろから日本刀で切って殺されたと聞いた」と悔しそうな表情を浮かべた。

■ほかにも住民虐殺が…

 久米島では日本軍による住民虐殺がほかにも起きている。渡嘉敷さんの妻政子さん(80)=同村仲地出身=は「島の人も関わったとされタブー(禁忌)となってきたが、何らかの形にして事実として伝えていかないといけない」と東京で島の沖縄戦について語り続けている。

 日本兵による住民虐殺は当時から住民の間でうわさになった。政子さんは「大人たちが屋号で『どこどこの誰々が殺されたよ』『部落の方で異様なことが起こっているよ』と話していたのを聞いていた」と話す。

 戦後も虐殺があったと聞いた場所に来ると、カヤを結んだ魔よけを手に通ったものだった。「子ども心にも、その時のことが思い出され、たまらない気持ちになった」。大人になって久米島の戦争の本を読んで、「ああ、あの話はそうだったのか」と記録と記憶がつながっていった。

 小学校1年で教えてくれた教諭が、島に配置されていた中野学校出身で「上原敏雄」を名乗る残置工作員だった。ある時、学校に米軍の憲兵が来て、2人で教諭を羽交い締めにして軍用車両で連行していった。その後の消息は知らないという。

 住民虐殺というテーマを語り継ぐのは重いため、得意の三線も交えて伝えている。島の悲劇にあえて向き合う夫婦。「今も残された者も重荷を背負いながら生きている」との思いを背に語り継いでいる。

 今年の慰霊の日は午後2時から、東京都練馬区立男女共同参画センター「えーる」で、久米島の沖縄戦について政子さんと一郎さんが語る会が催される。

(滝本匠)

久米島における沖縄戦での住民虐殺

 久米島に駐留した日本軍の通称「山の部隊」(鹿山正海軍通信隊長)が、6月26日の米軍上陸後にスパイ嫌疑で住民20人を殺害した。米兵に拉致された住民を「スパイ」と見なし、目隠しのまま銃剣で刺し、家に火をつけて焼き払うなどした。朝鮮人家族も犠牲になった。島には残置工作員が具志川村に上原敏雄、仲里村に深町尚親を名乗る2人(いずれも偽名)が小学校に配置されており、住民虐殺への関与が疑われている。  


Posted by いざぁりん  at 00:28
これが、戦争です。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190623-00435766-okinawat-oki
(以下は、コピーです)
初めて語る戦争体験

 指で眉間から鼻の頭をなぞり、高い鼻を表現するサインは「米兵」、歯を指せば「白人」、髪を指すのは「黒人」-。無音の中、母の身ぶりを頼りに沖縄戦下の南部一帯を逃げた。聴覚障がいのある友寄(旧姓・上原)美代子さん(85)=沖縄県浦添市=は今年5月、初めて戦争体験について証言した。「ずっと若い世代に戦争のことを伝えたかった。でも話すすべがなかった」。74年間抱え込んだ記憶を、信頼する聴覚障がい者の知人と手話通訳士の力を借りていま語る。(社会部・篠原知恵)

【写真】空襲を受けた日本海軍の機雷敷設艦「常磐」

 ■「話すすべがなかった」

 那覇市山下町に生まれ、はしかの高熱で4歳のころ聴覚を失った。県立盲聾唖学校(当時)に進んだが戦争の影響で小学2年生で通えなくなり、手話を学べぬまま戦争に巻き込まれた。

 1944年、10・10空襲でかやぶき屋根の自宅は焼け落ちた。自宅近くの防空壕でしばらく暮らし、両親、兄、姉2人、親族、日本兵と共に首里(現末吉公園の拝所)へ。その後、玉城(現南城市)の鍾乳洞に向かった。

 はぐれないよう腰に巻き付けたひもを父に引っ張られながら、草むらや田んぼをひたすら移動した。「夜中も歩き続けて、とっても足が痛くてつらかった。父にせかされながら我慢して歩いた」

 一緒に逃げる中で、意思の疎通ができたのは母ただ一人。だがそれも身ぶり(ホームサイン)だけで互いに大まかな内容しか読み取れない。「もっと話そう」「もっと教えて」。母の袖をつかみせがむと、布で口を押さえられたり、人さし指を口に当てられたりしてたしなめられた。「自分の気持ちを伝えるのを我慢し続けた」

 当時12歳。目に飛び込む戦場の凄惨な光景、鼻に入る臭い、気配で伝わる大人の緊迫感も理解できる年頃だった。なのに今何が起き、身にどんな危険が迫っているのか把握できない不安が、一層の恐怖をかき立てた。

 ■隠れた墓、視覚も奪う

 1945年6月、当時12歳だった友寄美代子さん(85)は海軍司令部壕近くの亀甲墓の中に家族、親族、日本兵の約20人で隠れた。墓に広がる暗闇は、耳が聞こえない美代子さんにとって大半の情報源だった視覚さえも奪った。頑丈な墓で砲撃の振動も伝わらない。体に何かが触れるたびに飛び上がって驚きパニックに陥った。

 美代子さんの戦争体験は、主に視覚と感触と臭いに基づくものだ。

 米軍への降伏を拒み、墓内で日本兵と共に腹部に剣を突き刺して自ら命を絶った父の最期を、母に目を押さえられていた美代子さんは見ていない。記憶にあるのは、生前優しかった父の亡きがらに土をかぶせる母の姿と、近くで探した4輪の花を供えたこと。「手を合わせて目が腫れるまで泣いた」。米軍の影におびえ、父の遺体を残して墓を後にした。

 ある日の夕方。豊見城周辺で川のぬかるみに足がはまり抜けなくなった。よく見ると川底には人の塊があった。「死体と死体の間で足が抜けなかった。骨も浮いていた。このままこの死体のように死ぬと思った」

 ■聞こえぬ銃声、撃たれた親戚

 親戚の男性が足を引っ張りやっと抜けたと思ったら、男性はどこからともなくきた銃弾で倒れた。撃たれた中には同い年で仲良しの男の子もいた。死んだことは死体を触って分かった。血がべったり付いた手を葉っぱで拭い、また逃げた。

 「男だけ狙ったんだ」。怒りをあらわにした母の口がそう動いたように感じた。

 白い布を割き結んだ木の棒を掲げ、米兵に「降伏のしぐさ」をしたのは数日後の6月23日。トラックに乗せられ、名護の収容所に連れて行かれた。「米兵は自分の顔をさすって『耳が聞こえないんだね』というしぐさをし、新品のお菓子や洋服をくれた」。収容所で偶然出会ったろう者から手話のことを知った。

■今こそ若い人に伝えたい

 手話を使えるようになったのは戦後。成人してろう者の団体で活動するようになってからだ。「世界が広がった」

 それまで断片的だった戦争体験の記憶は、手話を覚えた後、母から当時のことを教えてもらう中で少しずつ埋まっていった。一方で戦争の記憶で、今も深夜に目が覚め、悲しさと苦しさで眠れなくなることがある。

 同じ戦争を経験し苦しみを共有できる同世代のろう者以外とは、戦争の話題は避けてきた。年を重ねて手話もうまくできず、戦後学校に通えなかったため文章の読み書きもままならない。言いたいことを理解してもらえるか不安もあった。

 それでも82歳で亡くなった大好きな母の年齢を追い越した今、若い世代にこう伝えたい。「父を殺した戦争を恨んでいる。戦争はたくさんの人の命を奪う」

 【識者の見方】ろう者の戦争体験、証言少ない

 証言を記録するため本紙は、美代子さんが通う就労継続支援B型事業所の職員で美代子さんの手話を理解できる聴覚障がい当事者と、那覇市の手話通訳士と共に体験を聞いた。昔ながらの手話も使う美代子さんの話を正確に聞き取ろうと、全ての内容を書き出した文章を、職員を通じて再度美代子さんが確認する態勢をとった。

 障がい者の沖縄戦に詳しい沖縄国際大学の安仁屋政昭名誉教授は「後世に語り継ぎたくても、戦時中の屈辱的な体験から語れず複雑な感情を抱える障がい者は多い。障がい者の証言そのものが少ない中で、ろう者の証言はさらに少ない」と話す。耳が聞こえず状況が把握しづらいため事実関係を記憶できずにいたり、「大変だった」とは言えてもどう大変かを語るのが難しかったりすると説明した。  


Posted by いざぁりん  at 00:26