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11月3日は、お休みをいただきます。
よろしくお願いいたします。

  


Posted by いざぁりん  at 09:17
原因が解明されなければなりません。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20191102-00000002-jnn-soci

  


Posted by いざぁりん  at 09:15
文化財を、保護しなければなりません。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191031-00000033-sasahi-soci
(以下は、コピーです)
 沖縄のシンボルである世界遺産・首里城が31日未明、火事によってほぼ全焼した。首里城は2000年に世界文化遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産として登録された施設の一つ。沖縄のシンボルで、観光名所でもあった。

 首里城正殿は1925年に国宝に指定されたが、1945年に沖縄戦で焼失。戦後は跡地に琉球大が建設された。琉球大のキャンパス移転にともない、1989年に復元工事に着手。1992年に首里城公園の一部が開園、2000年に首里城跡などが世界遺産に登録された。

 日本の文化財は木造建築が多く、炎との戦いの歴史でもある。

 太平洋戦争時には、名古屋城や広島城、増上寺(東京都港区)などが焼失。松山城は、1933年に放火によって大天守以外の多くを焼失。焼け残った部分も1945年の空襲で被害を受けた。さらに、1949年には再び放火にあい、3度の人為的火災でほとんどが焼けてしまった。

 1950年には、金閣寺(京都市北区)も放火によって全焼した。犯人は、当時21歳だった金閣寺の徒弟僧。金閣寺と一緒に焼死するつもりだったが、怖くなって裏山に逃げ、短刀で自らの胸を刺して睡眠薬を飲んで自殺を図っていたところ、死にきれずに逮捕された。取り調べでは、金閣寺の美しさに対する嫉妬と、それを拝観に来る人たちへの反感から放火したと供述した。衝撃的な放火事件は、三島由紀夫の『金閣寺』や水上勉の『五番町夕霧楼』といった文学作品の題材にもなった。

 首里城と同じく、地域のシンボルが焼失したものでは、2006年の下関駅放火事件がある。木造平屋建てで三角屋根が特徴だった駅舎は、新年早々の1月7日に放火で東口駅舎が全焼した。犯人は当時74歳の無職の男で、前年12月30日に福岡刑務所を出所してからわずか8日後に犯行に及んだ。動機について「刑務所に戻りたかった」と供述したという。懲役10年の判決を受けたが、判決では「軽度知的障害で、かつ高齢でありながら、刑務所を出所後、格別の支援を受けることもなかった」と指摘された。累犯障害者の問題を浮き彫りにさせた事件でもあった。
  


Posted by いざぁりん  at 00:04
再建しましょう。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191031-00000009-jct-soci
(以下は、コピーです)
屋根瓦の色にも新たな知見が

 首里城公園の復元整備は、「1712~戦前までの首里城」をモデルにしているが、1992年の正殿復元後も「かつての姿」に関する研究は進んでいる。2018年11月には、2年3か月をかけた正殿外部の漆の塗りなおしが完了。開園以来、部分的な塗りなおしは行われてきたが、全方位を同時期に塗り直したのは初めてのことだ。公園事務所の発表資料では、

  「開園当時より研究が進み、より琉球王国時代に近い工程と技法によって塗り直しの作業が行われました。塗り直し等のメンテナンス作業はこの先も定期的に行い、伝統的な技術を後世に残すため、職人の人材育成も進めています」

と説明している。

 べんがら色(朱色)で復元されていた正殿の屋根瓦の行方も注目だ。沖縄戦で焼失した正殿を復元しようとした際は白黒写真しか残っておらず、色を決めるのに難航。焼失前を知る人にヒヤリングしたが、「黒」「灰色」「赤」など諸説が飛び出したという経緯がある。

 それから20年以上経った2014年の「新発見」が、再建に影響する可能性もある。消失直前のカラー画像の存在だ。太平洋戦争の資料収集に取り組む市民グループ「豊の国宇佐市塾」(大分県宇佐市)が、米国の国立公文書館から購入・分析を進めていたフィルムの中に写っていたのだ。1945年4月下旬~5月上旬ごろ、日本軍の拠点を攻撃する米軍の爆撃機から撮影されたとみられ、本殿の屋根瓦は黒く映っている。こういった新たな知見をどのように反映させるかも議論になりそうだ。


  


Posted by いざぁりん  at 00:03
再建しましょう。
放送は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191101-00491965-okinawat-oki
(以下は、コピーです)
 1986年からの首里城復元で設計統括責任者として携わった県建築士会前会長の中本清氏(71)は、首里城再建の課題に、建材の確保と人材育成の必要性を指摘する。当時も復元に必要な材木の調達に苦労した背景があるという。また、当時より大工や漆、瓦の職人の数は減少している。

 85年当時、首里城の資料は沖縄戦でほとんど焼失したため、戦前や戦中に首里城を見ていた建築士の話を聞いたり、古文書やそれを記したノート類、油絵などを参考にした。歴史や文化財、工芸関係者などの専門家を交えて史料研究会を重ねたという。

 歴史や文化の象徴として忠実な再現を求めながら、「展示機能を兼ね備えた正殿として来場者の動線を考慮し、一部のはりには鉄骨を組むなどの設計を施した」と振り返る。当時の図面は正殿だけで百数十枚。建設に約3年かかったが、設計にも約3年を要した。

 正殿の構造に使う建材には、半径約1・5メートル、高さ約10メートルの太い大きな材木が大量に必要になる。史料などからタイワンヒノキが挙がったが、当時の台湾には伐採規制があり、購入は難航したという。中本氏は「近年は、当時よりさらに自然環境保護の意識が高い。沖縄に思いを寄せる地元業者に融通してもらったが、再建には建材調達が課題になるだろう」とする。

 ただ、前回の復元作業とは異なり、今後の再建に向けては設計図も詳細なデータなども残っている。「財政面の問題はあるが、さまざまな分野の意見を系統立てて積み重ねた知見もある。日本復帰50年の2022年に建設着工ということも可能ではないか」とみる。

 その上で「当時は沖縄の大工も元気で、沖縄らしい木造の組み方や独自の材木もあった。県内の職人も少なくなっているが、首里城再建には、10~20年かかる。設計や職人も含めて、挑戦する若い人の力が必要だ」と話した。  


Posted by いざぁりん  at 00:02
再建しましょう。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191101-00010000-fukui-l18
(以下は、コピーです)
 沖縄戦災復興の象徴とされた首里城復元工事の中心を担ったのは、福井県の宮大工たちだった。職人の技が惜しみなく注がれた首里城が全焼した10月31日、正殿の屋根が焼け落ちるテレビ映像を目の当たりにした宮大工は「あまりにもショック」と肩を落とした。

 復元に携わったのは藤田社寺建設(福井県永平寺町)。越前大仏の建設に台湾ヒノキを使用していたことから、同じ木材での復元を目指す正殿工事の要として白羽の矢が立った。1992年の完成まで、10人を超す精鋭が3年以上現地に滞在。現地の宮大工と汗を流した。

 当時、副棟梁として図面や施工管理を担った山本信幸さん(61)は「当時としては木造建築最大級の復元工事。地元愛の強い沖縄の県民性もあり、ものすごい重圧だった」と振り返る。そうした中、心魂を注いで一大プロジェクトを成し遂げただけに、正殿が焼け落ちる映像に「あまりにもショック。言葉を失った」と肩を落とした。その一方、「一から復元に携わった人間として少しでも役に立ちたい」とも語った。

 首里城一帯の復元は2018年まで続き、藤田社寺建設は正殿に隣接する御殿などの工事も担った。三浦博之社長(62)は「来年には傷んでいた正殿の柱を入れ替える予定だったのに…」とショックをあらわにし、棟梁の近藤克昭さん(40)は「再び復元するには10年、20年を要するかもしれないが、早く元通りになってほしい」と願った。正殿復元に合わせ現地で採用された沖縄出身の與那原幸信さん(53)は「セキュリティーが厳しかった正殿で、どうして火が出たのか不可解」と話した。  


Posted by いざぁりん  at 00:01
再建しましょう。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191101-00491970-okinawat-oki
(以下は、コピーです)
 「人々の知恵と技を集めた琉球の文化が消えていく。これは現実なのか」

 沖縄県指定無形文化財「琉球漆器」保持者の前田孝允(こういん)さん(82)=那覇市=は31日早朝、入院中の病院で首里城火災のテレビ報道に接した。あまりの衝撃に開いた口がふさがらず、ぼうぜん自失に。やがて妻の栄さん(74)が見舞うと、抑えていた涙があふれ出した。

 朱色地に金の竜や五色の雲が描かれた柱、螺(ら)鈿(でん)や沈金を施した調度品…。足掛け約30年にわたって、王朝文化の華とも言える漆芸の復元を手掛けた。古文書など史料がほとんど存在しない中、絵柄や色の手掛かりを求めて国内外を視察し、ゼロから生み出したものばかり。首里城自体を「赤瓦のふたをした巨大な漆の器」と誇りにしてきた。

 「一緒に首里城を造ろう」。50代で再婚した栄さんにはこうプロポーズした。工期が近づけばアトリエにこもり、1日2~3時間の睡眠で乗り切った。正殿2階に鎮座していた国王用の椅子「螺鈿玉座」は、移動時に装飾を傷付けてはいけないと、アトリエの柱を切って運び出したエピソードも。

 玉座の上方に掲げられた「中山世土」の扁(へん)額(がく)は、栄さんの病が理由で制作の依頼を断り続けていたが、治療が一段落したその日に国の関係者に懇願され引き受けた思い出がある。

 なすすべなく焼け焦げた沖縄のシンボル。栄さんは「2人の間に子どもがいない分、私たちにとっては、どれもわが子同然の存在。火事は人の魂も奪い去っていく」と肩を落とした。

 それでも前田さんは「私はいつでも物事を前向きに捉えて、仕事に取り組んできた」と気丈に振る舞う。

 この夏以降、手のけがやインフルエンザで崩した体調は回復し、間もなく退院する見込み。「そしたら、すぐにでも復元に飛んでいきたい。まだ、おしまいじゃない」。栄さんは「それがこの人のいいところ。また頑張るしかないね」とうなずいた。
  


Posted by いざぁりん  at 00:01
時間をかけてでも、再建しましょう。
報道は、こちらです。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191101-00000019-ryu-oki
(以下は、コピーです)
 首里城焼失を受け、県や国は再建を目指す方針を示しているが、そのためには技術者や資材の確保で高いハードルも立ちはだかる。

 1992年の首里城復元時には正殿の5万5千枚を含め計22万枚もの赤瓦が使われたが、赤瓦やしっくいの職人は減少と高齢化が進んでいる。また、92年復元時は沖縄戦や戦後復興のための乱伐で県内の木材が枯渇していたため、台湾や他府県産のヒノキを使用せざるを得なかったが、台湾は1990年代から森林保護のためにヒノキの伐採を禁止するなど、資材確保は一層厳しくなっている。

 92年の復元で設計総括責任者を務めた中本清さんは、当時ヒノキの輸出を禁止していた台湾森林管理局と直接交渉し、「これが最後だ」と特例で調達を認められた経緯などを振り返った。「図面もあるので技術的には再建は可能だろうが、あれだけの建物を造るには太い木が必要だ。仮にもう一度、木造でやるならば資材の調達は簡単ではない。職人不足の問題もある」と指摘した。

 県琉球赤瓦漆喰(しっくい)施工協同組合の神里善則副理事によると、92年の復元時に比べ県内のしっくい職人は半分以上減った。神里副理事は「民間工事でも人の確保に四苦八苦している。再建には時間も人材育成も必要だ」と話した。県赤瓦事業協同組合の当山彰専務理事は「職人は減少しているが技術は継承されているので対応はできるだろう」とした。その上で「ただ長い時間が必要だ。短期だと難しい」と話した。
  


Posted by いざぁりん  at 00:00