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http://digital.asahi.com/articles/DA3S11787965.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11787965
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 曲がりくねった山道を上ると、日本海に面した断崖にたどりつく。岩肌むき出しの絶壁の眼下に広がる漁村。山口県長門市の津黄(つおう)漁港に安倍晋三(60)が現れたのは、2008年6月10日のことだ。

 「また頑張りたいと思います。みなさんの応援をよろしくお願いします」

 ござの上にあぐらをかいて座る男性やサンダル姿の女性ら30人を前に、安倍は頭を下げた。

 「晋三さんは『おわび行脚』のつもりでした」

 後援会の小野弘子(78)はそう語る。安倍は小野ら後援会幹部にこんな提案をしていた。「5、6人しか集まらなくてもいいから地元を回りたい」

 07年9月、健康問題で首相を退陣した安倍が、自身のルーツ・油谷(ゆや)で再出発したときのことだ。長門市北西部で日本海に面した旧油谷町の集落を一望できる高台に、父・晋太郎と祖父・寛(かん)が眠る。安倍は「おわび行脚」の前に、安倍家の墓を訪れていた。

 晋太郎の追悼集によると、安倍家の遠祖は東北地方・陸奥の豪族という。源平合戦で安倍家は平家の陣営に入り、壇ノ浦の合戦後、山口に移り住んだ。

 安倍家は、地元では代々醸造業を営む大地主で知られている。政治家一族としての安倍家の礎を築いたのが、晋三の父方の祖父、安倍寛だ。

 「わしのお袋がよく言いよった。『寛が銀座を歩くと柳がなびく』と。芸者が振り返るほど、いい男ちゅうことじゃ」。現在の長門市の一部、元日置(へき)町長の江原清(85)はこう話す。

 寛の結婚写真を見ると、紋付きはかま姿ですらりと立ち、切れ長の目に鼻筋の通った顔立ち。蓄えた口ひげが貫禄を漂わせる。江原は言う。「威厳がありすぎて、子どものわしらには怖いくらいじゃった」

 寛は東京帝国大学を卒業後、東京で自転車製造会社を起こすが失敗。地元に戻り、旧日置村長などを務めたのち、国政に転じる。

 寛は、反骨の政治家として知られていた。日中戦争長期化の原因となった「国民政府を相手とせず」という首相・近衛文麿の声明に反対。太平洋戦争開戦時の首相・東条英機に対する批判の急先鋒(きゅうせんぽう)でもあった。

 地元でいまでも語り継がれているのが、1942年の翼賛選挙だ。

 寛は、圧倒的に不利な情勢下でも非推薦で立候補し、最下位ながらも当選を果たす。地元ではそんな寛のことを、畏敬(いけい)の念を込めて「昭和の松陰」と呼ぶ。

 寛は、当選同期で翼賛選挙でもお互いに非推薦で当選した、のちに首相となる三木武夫と親交を深めていた。三木の妻睦子は講演会などで当時の寛をこう振り返った。

 「(寛は)三木と熱っぽく非戦論を語り合い、2人とも、どうすれば戦争をやめさせることができるか必死だった」

 悲願の終戦を迎え戦後初めての衆院選を間近に控えた46年1月。地元の期待を集めて選挙の準備に追われていた寛は突然、心臓まひで倒れて死んだ。51歳の若さだった。

 =敬称略

     ◇

 次回は安倍寛氏の一人息子、晋太郎氏を追います。

 (石井潤一郎)

 

 ◆キーワード

 <翼賛選挙> 東条英機内閣のもとで戦中の1942年にあった衆院選。政府側の「翼賛政治体制協議会」によって、推薦と非推薦に候補が分けられた。非推薦候補には自治体や警察によって選挙妨害が繰り返され、当選者は岸信介ら推薦候補が8割以上を占めた。一方、非推薦候補では、安倍寛や三木武夫、尾崎行雄らが当選した。



Posted by いざぁりん  at 00:29