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こちらです。
http://www.tv-asahi.co.jp/hst/info/enquete/11.html
(以下は、コピーです)
【憲法論について】統治を担うのは天使ではなく人間である。それ故に、統治には何重もの警戒的抑制装置を設けておかなければならない(ザ・フェデラリスト51篇)。権力を行使する人間の能力の限界を認め、その抑制を図ることに立憲主義の理念はある。そして、その立憲主義の理念を、まさに第二次大戦の惨劇という統治の劇的な失敗の経験に基づき、安全保障政策の分野にまで拡大したことに日本国憲法の独自性、平和主義の意義がある。今回の安保法制は、単に自衛隊の活動の範囲を拡大するというのみならず、武力行使の憲法的統制という日本国憲法の平和主義の基本理念を空文化するものであり、「量的」というよりもむしろ「質的」に違憲であると考える。自国に対する武力攻撃がなければ、武力の行使をしてはならない。従来、政府が採用してきた集団的自衛権行使禁止原則は、客観的で、政権を担う人間の判断を越えた拘束力をもっていた。しかし、今回の安保法制改正により、そのルールは極めて漠然で拡大解釈可能なものへと変貌することになる。武力行使の新たな要件である「存立危機事態」は、我が国の領域への侵攻や攻撃といったような人身的、物理的な損害が発生するような事態のみならず、幸福追求権への危険性をも含めた概念となっている。具体的に何が幸福追求権に含まれるのかは、最高裁はおろか政府もこれまでその全容を明らかにしたことはない。「存立危機事態」という名称自体誤動的であり、「幸福危機事態」等の名称変更が必要であろう。また、政府は、新たな安保法制のもとでは、ホルムズ海峡が封鎖された場合の機雷除去作業は認められるが、イラク戦争や湾岸戦争への参加は認められないと説明する。しかし、どのような理由によって、それらの事例が区別されるのか、法案の諸要件を読んでも直ちに明らかとはならない。つまりは、いかなる場合に武力行使できるかは、結局のところ、為政者の判断次第ということなる。確かに、安倍総理が政権に留まる限りは、答弁通り、イラク戦争や湾岸戦争のような戦争には参加しないのかもしれない。しかし、今後政権を担う総理が安倍総理と同じように存立危機事態等の要件の「当てはめ」をおこなうとは限らないのである。民主党政権を批判した安倍総理がなぜ今後の政権への全面的信頼に基礎を置いた法制度改正を進めようとするのか理解できない。「切れ目のない」安全保障とは、言い換えるならば、自衛隊の活動の是非・範囲を、時の政権・与党の主観的、政策的判断に委ねようとするものであり、それは、安全保障政策を時の政権の判断に委ねず、一定のルールの下に置いて統制しようとする日本国憲法の根本的思想、パラダイムと全く相容れないものだ。憲法の理想が現実との妥協を余儀なくされるものであるとしても、時の政権の判断によって歴史的、国際的に非難の対象となる武力の行使をおこなってしまうという事態を回避するため、最低限の歯止めを設ける。それは憲法9条の核心的要請であり、今回の安保法制は、その核心的要請と抵触するが故に違憲であると考える。
【政策的妥当性について】安倍総理は、日米安保改定時の反対論は杞憂に過ぎず、それが間違っていたことは歴史が証明しており、今回も同様であるとする。しかし、かつての安保改定と今回の安保法制はその内容が全く異なったものであり、二つを同定するのは、論理的に間違いである。むしろ、歴史が証明しているのは、集団的自衛権行使を認めてこなかったことにより、武力の行使により、一人も殺し、殺されることはなかったという事実ではないか。海外での武力行使について一定の歯止めをもって対応してきたことはそれ自体として平和国家としての日本の礎となってきたのであり、そのことが生み出すソフトパワーがむしろ抑止力となってきた面があることは否定できない。現状を変更することは仮にそのこと自体にメリットがあるとしても、現状にはないデメリットを生み出すものであり、熟慮と慎重な利益衡量が要請される。今回の安保法制の議論を通じて政府は論理的に疑義が伴う説明を繰り返しているが、新たな安保法制が必要であるという政府の政策的結論が、精緻な論理的思考によって裏付けされたものか疑問である。また、今回の安保法制が仮に成立したとしても、憲法的基礎づけが不安定なことには変わりなく、世論の広範な支持もない以上、今後、この安保法制を維持し続けるか否かが断続的に国会で議論がなされ続けることは不可避であり、武力行使の是非をめぐって国会が紛糾する事態もこれまで以上に増加することも間違いない。国会の論議が安全保障問題に偏り続けることは、国内政治に「切れ目」を生じさせることに他ならず、法案を成立させることそれ自体がもつデメリットも考慮されるべきだ。
【国会運営について】自民党が現在提出している憲法改正草案の前文は、「日本国民は、・・・和を尊び、・・・国家を形成する」としている。国論を二分し、強い反対論がある議論について、相手を説得するというよりも、数の論理により強引に法案を通そうとすることはそこでいう「和を尊ぶ」ことになるのか。むしろ、そこで言う「和を尊ぶ」とは、結局のところ、国民は文句を言わず、権力者に従えということになるのではないか。今回の安保法制に関する与党の対応はその寄って立つ政治道徳、共同体思想がいかなるものであるのかについて真価が問われるものであるとも言えよう。


千葉勝美現最高裁判事は、「判決による司法判断は、全て具体的な事実を前提にしてそれに法を適用して事件を処理するために、更にはそれに必要な限度で法令解釈を展開するものである」と重要判決の補足意見のなかで論じている(最判平成24年12月7日刑集第66巻12号1337頁)。砂川事件判決は我が国の集団的自衛権が争点となった事案では全くなく、集団的自衛権について何ら憲法解釈をおこなっていないことは通常の判決の読み方からは明らかである。内閣法制局は、その他の審査事務や意見事務においても、今回の安保法制と同じように、最高裁判決の一般論をその事案を無視して拡張解釈するような読み方をおこなってきたのか。もし、そのような判決の読み方をおこなっていたとすれば内閣法制局の事務は法の専門家として極めて杜撰なものだったということになるし、そうでないならば、なぜ今回に限って特殊な判決の読み方をするのか充分な説明をおこなう必要があるだろう。



Posted by いざぁりん  at 14:29