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こちらです。
http://digital.asahi.com/articles/ASHCV452XHCVPTIL00V.html?rm=732
(以下は、コピーです)
 太平洋戦争が終わってから11カ月がたった1946年7月のある朝。7歳だった藤野高明さん(76)=大阪市=は当時暮らしていた福岡市内の家の土間で、近くの川でたくさん拾った乾電池のような形の細長い筒を持って遊んでいた。

 筒の端にあいた穴から中をのぞくと、砂のようなものが入っていた。釘を差し込んで取り出そうとした瞬間、ドーンという轟音(ごうおん)がした。一緒に拾った大量の筒にも引火して爆発。そばにいた5歳の弟は即死し、藤野さんも両手と両目の視力を失った。「警察などが調べると火薬が入っていました。日本軍が残していったようだとのことでした」と藤野さんは振り返る。

 小学校に行けなくなり、盲学校からは「うちは目が見えない子の学校。手がない子は受け入れられない」と入学を断られた。月と地球の距離、光の秒速……。ラジオの学習番組を聴き、頭の中に刻み込んだ。点字を唇で読めるようになり、2002年まで大阪の盲学校の教員として働いた。

 戦争では戦地や空襲、沖縄の地上戦などで多くの人が死亡し、傷ついた。厚生労働省によると、戦争で障害を負った軍人・軍属に交付される戦傷病者手帳の所持者は1万4385人(昨年3月時点)。一方で、終戦後に不発弾などの被害を受けて障害を負った民間人に関する統計はなく、全体像は分かっていない。

 戦争が終わった70年前、藤野さんは「もう爆弾は落ちてこない」と喜んだ。だが、平和になったはずの日本に残された戦争の爪痕によって人生を変えられた。「やっている時だけではなく、終わった後も人を傷つける。それが戦争です」

■「弱者」目線で若者も問う

 障害者の目線で戦争を考える。戦後70年の今年、こうした動きも広がった。

 この夏に東京で開かれ、藤野さんも登壇したシンポジウム「わたしたちには聴こえます! 戦争の足音が……」(主催=NPO法人・日本障害者協議会)。約500人が集まった会場に精神保健福祉士をめざす上原聖歌さん(23)=埼玉県立大4年=がいた。

 戦争が障害者をどんな環境に追い込んでいったのかについて、本やテレビのドキュメンタリーなどを通じて勉強した。そして「戦争は福祉の根底を崩してしまう」と感じた。この経験を障害者と触れ合う仕事に就いた時にどう生かすか、上原さんは問い続けている。

 発達障害がある瀧川晴日(はるひ)さん(19)=大阪府門真市=は安全保障関連法の是非が議論された今年、「多様性が抑圧され、抵抗できない空気が漂ってきていないか」と思った。9月に大阪市内であった安保法反対のデモに参加し、大勢の人を前に気持ちを訴えた。

 一方でデモに加わるうちに、社会が抱える様々な問題が根っこでつながっている気がした。強者の論理が「弱者の排除」を生んでいないだろうか――。

 「私も無意識に誰かを排除しているかもしれない。正義って妄信的。自分がいつも正しいと思わずに行動していきたい」。2年前に高校卒業の認定試験に合格した瀧川さんはいま、大学進学をめざしている。(花房吾早子)

     ◇

 《障害者》 心身の機能に障害がある人で、大きくは身体、知的、精神(発達障害を含む)に分かれる。厚生労働省によると、身体障害者手帳は約525万人(昨年3月時点)、重度・中軽度の知的障害が対象の療育手帳は約94万人(同)、精神障害者保健福祉手帳は約80万人(3月時点)が所持している。障害の表記をめぐっては「障がい」とする動きが出る一方、「社会の側に問題があることを示すには『害』を使うほうがいい」「環境の障壁を意味する『碍(がい)』を用いるべきだ」とする考え方がある。



Posted by いざぁりん  at 23:26