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2016年05月25日

漱石による指導死

指導者は、生徒が教育を受ける権利までも、奪ってはなりません。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160520-00010000-seraijp-cul
(以下は、コピーです)
今から113 年前の今日、すなわち明治36年(1903)5月20日、36歳の漱石は英語教師として第一高等学校の教壇に立っていた。

藤村操という生徒に訳読をするよう指名すると、予習をしてきていないという。その言い方が、いかにも反抗的である。

漱石は怒りを抑えつつも、強い調子で叱りつけた。

「勉強する気がないなら、もうこの教室にこなくてよい」

漱石が叱るのも無理はなかった。つい1週間前の5月13日にも、教室でまったく同じような光景が展開されていたのである。

その日は漱石の一高における初めての授業で、たまたま藤村操を指名した。

すると「やってきてません」と昂然と答える。

「なぜやってこないんだ」

漱石が静かに問いつめると、生徒は、

「やりたくないからやってこないんです」

と、反抗的な態度を露にした。

こうなると、まともな対話にもなりようがないので、漱石は、

「この次やってこい」

とだけ言ってその場をおさめた。

そして、1週間後の今日の再指名。にもかかわらず、なのである。

怠けて予習をさぼるだけなら、まあ、人間だからそういうこともあるだろう。しかし、それに加えて、教師に対して無闇に反抗的な態度をぶつけてくるのでは、学校の授業など成り立たない。それでは、生徒自身が、親に学費を出してもらいながら、なんのために高等学校にきているのかわからないではないか。

漱石が口にした、「勉強する気がないなら、もうこの教室にこなくてよい」とは、そうした思いからごく自然に出た言葉であった。

ところが、2日後、とんでもない事件が起きた。この藤村操が、日光の華厳の滝で投身自殺を遂げてしまったのである。

死の直前、藤村操は巖頭(がんとう)の楢(なら)の大樹を削って、こんな遺文を彫りつけていた。

《万有の真相は唯た一言にして悉(つく)す、曰(いわ)く「不可解」、我この恨(こん)を懐(いだ)いて煩悶終(つい)に死を決するに至る》

天地万物のすべて、この人生も不可解の一語につきる。解くことのできぬわだかまりを心に抱いて悩み苦しみ、自ら命を絶つことを決心したというのだ。

この18歳の若い死は、日本における哲学的な煩悶による自殺の初めではないかという指摘もあり、世間に大きな衝撃を与えた。追随者も出た。

漱石も、自分が叱った直後だけに大変なショックを受けた。漱石の叱責と自殺とは直接の因果関係はなかったが、わずかな期間とはいえ教え子だった若者が死んだのだ。

ひとりで抱え込まずに、ちょっとでも打ち明けてくれていたら、何か言ってやれることがあったかもしれない。そんなふうにも思っただろう。実際、悩みや不遇を訴える若い教え子や門弟たちにさまざまな助言や慰謝を与え、進むべき道筋を照らし出している漱石なのだから。

漱石は後年までこの事件のことを深く記憶に留め、小説『草枕』の中にも、その若い死を惜しみこんな一文を書き込んだ。

《昔し巖頭の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して急湍(きゅうたん)に赴いた青年がある。余の視(み)るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う》

漱石先生、書きながら、心の内で合掌していただろう。

■今日の漱石「心の言葉」
生存は人生の第一義なり(『ノート』より)

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。



Posted by いざぁりん  at 00:12