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http://digital.asahi.com/articles/DA3S12867688.html?rm=150
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 沖縄の音階と三線(さんしん)を全国に広めた「島唄」。ラブソングのように聞こえる歌に込められた本当の意味は?

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 「THE BOOM」のボーカリスト、宮沢和史さん(51)は山梨県出身。沖縄音楽の魅力にとりつかれたきっかけは、1989年のデビューから間もない頃、土産にもらった沖縄民謡のカセログイン前の続きットテープだった。

 「バブルの空気に居心地の悪さを感じて、日本から世界へ発信できる音楽を探していたとき、大地につながりをもつ沖縄民謡に日本の原風景を感じたんです」

 90年、アルバムのジャケット撮影のため、初めて沖縄の土を踏む。翌年には沖縄県糸満市のひめゆり平和祈念資料館を訪れ、ひめゆり学徒隊生存者の話を聞いた。住民を集団自決に追いやったものに対してだけでなく、沖縄戦に無知だった自分自身にも腹が立った。

 人々が息絶えたガマ(洞窟)の中に自分もいるような恐怖を覚え、資料館の外へ出ると、さとうきびが静かに風に揺れていた。

 宮沢さんは振り返る。

 「牧歌的な光景と、その下で行われた殺戮(さつりく)とのギャップが信じられなかった」

 伝えなければと思った。自分には音楽がある。「体験を話してくれた方に恥ずかしくない曲を作ろう」。そう考えて一気に書き上げたのが「島唄」だ。

 「ウージ(さとうきび)の森であなたと出会い ウージの下で千代にさよなら」。単純に恋の始まりと終わりを描いたとも取れる一節は、ガマの中で自決した二人の幼なじみの男女をイメージしているという。

 「レ」と「ラ」がない琉球音階で作られた曲の中で、このフレーズだけは通常の西洋音階にした。「何が誰がそんな状況に追い込んだのかを思うと、沖縄の音階はつけられなかった。ヤマトの音階にした」

 当初は92年に発売されたアルバムの中の一曲にすぎなかったが、同年末、沖縄言葉(ウチナーグチ)に換えたシングルを沖縄限定で発売。県内で放送された泡盛のCMに起用されると、レコード会社に問い合わせが殺到した。

 93年6月、標準語の「オリジナル・ヴァージョン」がリリースされるやチャートをかけのぼり、年末のNHK紅白歌合戦にもバンドとして出場した。

 アンケートからは、歌に込めた思いが広く共有されていることがうかがえた。

 「最初はメロディーにひかれた。歌詞に込められた思いを知ってからは聴くたびに涙腺が緩む曲になった」(千葉、50歳女性)、「修学旅行で沖縄に行った先輩から『島唄』の歌詞の意味を教えてもらい、衝撃的だった。戦争の愚かさと平和を願う歌として永遠に歌われ続けてほしい」(福島、28歳男性)、「ボブ・ディランの『風に吹かれて』に匹敵する格調高い非戦の思想の歌だと思う」(福岡、68歳男性)、「沖縄をリゾートからではなく、負の記憶から理解することができたのは『島唄』のおかげ」(東京、44歳女性)、「長兄が沖縄戦で戦死し、平和の礎(いしじ)に名が刻まれている。この歌を聴くたび、兄への思いが募る」(岐阜、80歳男性)。


 ■沖縄に根付く民謡に

 宮沢さん自身が、創作の経緯や歌詞の意味について積極的に語るようになったのは、2000年代半ば以降のことだという。当初は、「音楽で勝負したい」と、言葉で説明することをかたくなに避けていた。

 「戦争体験者も減っていくなかで、伝えなければという思いで作った曲なのに、次の世代に手渡せているか心配になってきたんです。沖縄の歌を伝えることが次の僕の役割だと思えてきた」

 14年12月、バンドは解散してソロに。ここ数年は沖縄民謡を収録保存する活動に力を入れてきた。200人を超える歌手を訪ね、245曲を録音、CDにして沖縄県内の学校などに寄贈した。三線の棹(さお)の原料である黒木(くるち)を育てるプロジェクトも発足させた。

 「島唄」については、「戦争体験もなく沖縄の人でもない自分が沖縄戦を歌っていいのか」と悩んだ時期もあったという。本土のロックバンドが三線をふり回しているのは何事かと、沖縄では批判もされた。

 「理解されるには、誰が作った曲なのかは関係なくなるまで、土地に根付く民謡になるまで、歌い続けていくしかない」

 最近、そんな思いが少しずつ現実になってきたと感じている。



Posted by いざぁりん  at 01:23