京つう

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こちらです。
http://diamond.jp/articles/-/91605
(以下は、コピーです)
──ミソジニー(女性蔑視)ですか。とはいえ、彼らは堂々とそれを標榜しているわけではないですよね。

すがの・たもつ
著述家。1974年、奈良県生まれ。一般企業のサラリーマンとして勤務するかたわら執筆活動を開始。退職後の2015年より主に政治経済分野での執筆を本格化させる。

 でも、従軍慰安婦も歴史認識も、みんなミソジニーが根底にあると考えれば、全部納得いくんです。従軍慰安婦問題で、彼らはよく「もう済んだ話をほじくり返すな」と言いますが、あれは日常の居酒屋用語に直すと、「素人娘ならまだしも玄人女がなぜゴタゴタ言ってるんだ」というのと同じなんですよ。

 ところが、組織としては日本会議は実に男女平等なんです。組織形態を見ると性役割分業が極めて少ない。例えば、夫婦別姓反対の大集会などで前面に立つのは、櫻井よしことか、市田ひろみとか、大体女性ですよ。表看板だけでなく、運動の裏方も女性が目立つ。そういう人たちが「夫婦別姓は夫婦関係を壊す」とか言っているわけです。

 一方、左翼側の組織で目立つポジションにいるのは、男。運動の足腰も男。なんとも歪な感じがするんですね。また、「女のくせに黙ってろ」「若い奴は引っ込んでろ」といった言い方は、むしろ左翼の団体の方から聞くことが多いです。

──そういえば、左側の女性は「われわれ女性として」「女性の立場から」などの表現をよく使いますが、右側の人からはあまり聞かないですね。

 日本会議の主張する政策は、ジェンダーバイアスが掛かりまくりだし、性役割分業を前提とする社会を実現しようとしているのは間違いない。でもその運動を推進している団体は極めてジェンダーロールが少ない。左は「ジェンダーロールをなくそう」と言いながら、運動体はバリバリのジェンダーロールでやっている。その矛盾に本人たちは気づいてないんですね。

左翼の人たちは革命幻想を夢見過ぎ

──バランスをとっていくには、左翼がもっと頑張らないといけませんね。

 本当にそう思います。少なくとも、社会人として当然の実務能力や折り目正しさを持ち合わせていない人が多すぎる。たとえば、自己主張なのか何なのか知らないけど、公の場所に頭にバンダナを巻いて来たり、寝癖つけたままデモに参加したりね。サラリーマンならわかるでしょうが、どんなに仕事ができても、そうした折り目正しさがなければ評価されないじゃないですか。それがいいか悪いかは別として、日本の社会はそう動いているんだから。社会を変えるには、まずは乗っからないといけない。

 そういうところを見ると、左翼の人はどこかでやっぱり、革命幻想というか、ある日突然世の中が変わることを夢見過ぎていたんじゃないかと思います。

 一方、日本会議周辺の人々は、そういうことはまったく思っていない。地方の愛国おじさん・愛国おばさんというのは、何らかの正業を持って、中の上くらいの生活をしてて、地域社会に溶け込み、運動となると手弁当で、一歩後退二歩前進が当然とばかりに、地道に市民運動をやっている。

 それでいて、運動手法は本当にピシッとしている。書類の作成、納期の守り方、定量目標の建て方、実に見事です。合意形成では、もめないよう、皆がちょっとずつガマンするように持っていき、気づいたら根回しをした者がおいしいところを全部持っていく…という感じで、とてもサラリーマンっぽいんです。

 もちろん、日本会議の幹部のように、一度も就職せず大学卒業以来政治活動だけしかしたことのない「プロ市民」も左翼以上に多いですけどね。

安倍晋三は21世紀の「そうせい候」

──ところで、歴代の自民党総裁にはずっと働きかけ、地道な右翼活動をしてきた日本会議が、なぜ安倍政権になってここまで深く食い込むことができたのでしょうか。

 いろんな説が成り立つか思いますが、僕が着目しているのは安倍晋三という政治家の、「あまりに主義主張に整合性が取れない」という特徴です。

 安倍首相はそれまでの総理経験者と比べると、とにかく党内基盤が弱すぎる。幹事長は経験したけれども、閣僚経験がろくにないまま、急に総理大臣になっています。あんな人は他にはいない。

 最近僕は、彼は21世紀の「そうせい候」なんじゃないかな、と考えています。

 幕末の長州藩のお殿様・毛利敬親って、長州藩で繰り広げられる政争で佐幕派が勝ったら「そうせい」、尊皇派が勝ったら「そうせい」と、下から上がってくる献策に、イエスしか言わなかった。安倍さんにもそれを感じるんです。すべての政策が総花的でしょう。その最たるものがアベノミクスだと思います。3本の矢と言いますが、財政出動で行くのか、緊縮路線なのか、増税なのか減税なのか、お金を刷るのか刷らないのか。結局、全部やる。総花的なんですよね。これは経済政策以外でも同じです。そんな、「なんでも採用しちゃう路線」のなかに、日本会議も入っているということなんじゃないかな、と。

 それを悪く言えば、「彼には主体性がない」となるけれど、僕はそれは彼一流の使命感なんだろうなと思っています。思想うんぬん関係なく、家系的に子供の頃から今の立場になると思って生きてきたでしょうし、「リーダーはどうあるべきか」と帝王学的なことを周りから教育もされたでしょう。彼はよく「自分は最高責任者だから」と言いますが、まさに最高責任者として、上がってきたものは全部拾うわけです。下からの献策を全部採用しちゃう。

 たとえば、朝、労働組合の幹部と会って、「非正規労働者を減らして、企業の内部留保を取り崩し、賃金を上げてもらわなきゃダメですよ」と言われれば、その日の午前の記者会見でそう言って、その日の夜に経団連の幹部に会って「雇用を流動化して賃金を下げなきゃ経営がきつい」と言われれば、次の日の記者会見ではそう言う、みたいな。

 彼のやっていることが、僕らから見ると矛盾だらけで整合性が全くとれないように見えるのは、そのせいなんだろうと思うんですよね。中身が「真空」だから、すべての勢力にとって、あれほど担ぎやすい神輿はない。

──消費増税の行方、伊勢志摩サミット、7月の参院選は衆参同時選挙になるのかなど、今後も何かと政治テーマが続きます。

 もう今は、あらゆる人々が安倍首相を押したり上げたり引っ張ったりで、五体分裂みたいになってるでしょうね。それらを全部咀嚼して出してくるのはなにか。もはや予測不能ですよ。

 そう思うと、政治部記者の仕事の仕方が、そろそろ時代に合わなくなっているんじゃないかと思いますね。

 三角大福中の派閥政治が華やかりし頃は、自民党本部と大物政治家が事務所を構える砂防会館のあいだを行ったり来たりすれば、政治部記者は記事を書けた。そこが権力の足元であり、かつまた、権力が行使される現場でしたから。

 でも、小選挙区制になって派閥政治は終わった。今度は派閥ではなく、世論そのものが権力を生むようになった。それをポピュリズムというのは簡単ですが、とにかく権力を生む場所はもう、砂防会館と自民党本部のあいだにはないんですよ。そうでなく、地元の愛国おじさんのようなところまで行かないと、世論の動きはわからない。官邸から半径2km圏内だけにいるだけの政治部の記者にとっては、ずっと予測不能で終わるでしょう。

メディアの流れをこの本から変えたい

──連載中、新聞やテレビといった大手メディアからの反応はありましたか。


「日本会議の研究」(扶桑社新書) 800円(税抜)

 何もないです。だからすごく不安でした。

 政治部の記者はさっき言ったように官邸から2km圏内でしか生活していないので、日本会議のことなどご存じないのかもしれませんが、社会部の記者は知っているはずなんです。

 でも社会部があまりに日本会議のことを書かないので、もしかして僕が間違っているんじゃないかとずっと不安でしたね。マラソンで周りにランナーがいなくて、観客もいなくて、もしかしてコース間違えたのかなという感じ(笑)。

──政治部の記者が読んでいないというのは致命的ですね。

 もちろん、勘のいい人は読んでくださっています。応援もしていただきました。でも、大半の政治部の記者からすると僕の書いたことなんて馬鹿らしくて相手にしていられないのでしょう。彼らにとっては「政局」なるものが最重要だから。「政局」なるものを追いかけるには、「誰が誰といつ会った」「誰が誰と喧嘩した」という話が重要なのでしょう。でも、本来、メディアは言論機関として政治と対峙しなければなりません。そうしないと民主主義は成立しないはずなので。

 たとえばアメリカでは、メディアは政治家のセックススキャンダルもマネースキャンダルもやるけれど、政治家が変なことを言ったら、メディアがきちんと検証し、「ダメだ」と書く。「言説を言説として言説で批判する」習慣がまだ辛うじて残っている。ところが日本は、ロッキード事件以来、政治家のスキャンダルと言えばお金とセックスの問題ばかりになった。そして、逆にお金とセックス問題以外なら、よほどの失言でもない限り、政治家の言説を批判しなくなった。

 その点、日本会議は宗教的な人が多いから、皆さん、真面目で清潔なんですよ。お金とセックスの問題はあまり出てこない。だから批判の対象になりにくい。

 日本のメディアが真正面から政治家や政治勢力の言説と戦うことを、過去40年間やらな過ぎたことに問題があると思いますね。政治記事がスキャンダル中心に変わったのは、70年代に立花隆氏が「田中角栄研究」で所謂「田中金脈問題」を書いたのがきっかけだったのだと思います。あれは重要な仕事だっただろうけども、その後、メディアは政治家や政治勢力の言論を相手にしなくなった。単にスキャンダルを追いかけるだけの存在に成り下がり、民主主義の番人であることを、自ら辞めてしまった。

 その意味では、今回の僕の本がもし40年後に、「政治をスキャンダルだけでなく言論として批評し、政治運動は政治運動として直視するという風潮に変えたのはあの本だった」と評価を受けるなら、こんなうれしいことはありません。




Posted by いざぁりん  at 01:07