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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160713-00000059-reut-eurp&pos=3
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 イタリアのナポリ近郊にある人口1万1000人の小都市ボスコトレカーゼで12日、役所職員の約半数に当たる23人が「ずる休み」の罪で逮捕され、人手不足のため大半の業務が停止される事態となっている。

数週間にわたる捜査の結果、200件のずる休みが発覚。関与した人物は30人に上ったという。

警察が仕込んだカメラには、職員がタイムレコーダーで出勤記録を付けてから私用で職場を離れる様子や、複数のカードを機械に通して出勤していない同僚の出勤記録を付ける様子などが撮影されていた。

市長は地元テレビに対し「役所を閉鎖せざるを得ないだろう」と語った。政府は最近、ずる休みに対する取り締まり強化を発表しており、摘発された労働者は6─12カ月の停職処分を受けたほか、最終的に解雇の可能性もあるという。  


Posted by いざぁりん  at 00:50
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http://mainichi.jp/sc/articles/20160616/hrc/00m/200/001000d?utm_source=ycd&utm_medium=display&utm_campaign=shizumanu20160701
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 「白い巨塔」や「華麗なる一族」などの社会派小説で知られ、映画やドラマとして映像化された作品も大ヒットした作家・山崎豊子(1924〜2013年)。作品の多くは実在の人物や団体をモデルにし、医療や戦争などの難しいテーマに真正面から向き合いながら、数年掛けて精力的な取材を重ねており、「限りなくノンフィクションに近い人間ドラマ」が人気の秘密だ。死去から3年となる今年も、「沈まぬ太陽」がWOWOWで初めて連続テレビドラマ化され放送中で、山崎の存在感を示し続けている。【丸山進】

山崎豊子の最高傑作「沈まぬ太陽」の構想はアフリカの大地で生まれた

■上司の井上靖に文章の厳しさを学び、作家活動へ

「沈まぬ太陽」の刊行記念サイン会で笑顔を見せる山崎豊子さん=1999年撮影

 山崎は1924年、大阪・船場の昆布商に生まれ、44年、京都女子専門学校(現京都女子大)国文科卒業後、毎日新聞に入社した。大阪本社学芸部の副部長で、すでに小説家だった井上靖に文章の厳しさを学び、自らも休日を利用して小説を書き始めた。執筆に10年を費やし、生家をモデルにした「暖簾(のれん)」を57年に刊行。さらに翌年、「中央公論」に連載した「花のれん」で直木賞を受賞し、これを機に毎日新聞を退社し、作家活動に専念。「ぼんち」や「女系家族」「花紋」といった大阪を舞台にした女性の生涯を描いた。61年に学芸部の同僚だった美術記者の杉本亀久雄氏と結婚した。精力的な取材活動の半面、生まれつき気管支が弱く、入退院を繰り返した。

 その一方で、仕事に関しては自分にも周囲にも厳しかった。50年以上も山崎の秘書を務めた野上孝子氏の著書「山崎豊子先生の素顔」(文芸春秋)によると、電話の応対や日々のあいさつまで、ことあるごとに雷を落とされた。原稿の感想を聞かれ、どこが具体的に面白く、どこを改善すべきかを求められ、具体的な意見が出せないと「意見なきものは去れ」と手厳しかったという。

■主治医の左遷がきっかけに医療過誤訴訟を描く

サンデー毎日で1963年に始まった連載小説「白い巨塔」は大学病院の暗部を描いた

 「社会派作家」としてのスタートを切ったのは、大学病院の腐敗を鋭く描いた「白い巨塔」。自身の主治医だった大阪大の助教授が「次期教授」と嘱望されながら、学内の嫉妬が元で九州に左遷されたことがきっかけだった。連載された「サンデー毎日」の編集者が医学博士の肩書きを持ち、学会や製薬会社も巻き込んで現金も飛び交う教授選の裏事情に通じていたことが構想の大きな助けになった。大学病院医師へ取材しただけでなく、学会や手術も見学し、医療過誤訴訟を描くために弁護士の元にも足を運んだ。

 作品は、いったんは患者側敗訴のまま終わり、続編を書く予定はなかった。しかし、連載終了後に読者から落胆の声が予想以上に広がり、控訴審を続編として執筆することになった。そのため、「逆転勝訴」の筋書きを生み出すのに苦労したが、医学界に「白い巨塔」のファンが多く、医師たちの知恵を結集して現実的な逆転物語をまとめ上げた。

 「白い巨塔」は田宮二郎主演で映画化され、4回にわたってテレビドラマ化もされた。78年6月~翌年1月のフジテレビのドラマでは、撮影が終わり、ドラマ放送があと2話となった年末、主演の田宮が猟銃自殺する衝撃的な事件も起きた。

■夫人と同格の席に座る愛人の姿をヒントに親族間の愛憎劇

 「華麗なる一族」は、山崎氏が毎年年末から正月三が日までを過ごし、今年の「伊勢志摩サミット」の舞台にもなった志摩観光ホテル(三重県)で目にした華やかな企業オーナー一族が出発点。夫人と同格の席に座る愛人の姿が目に付き、愛人を別宅に囲うよりも背徳感を強く覚え、お堅いイメージの都市銀行の裏に隠された親族間の愛憎劇のヒントになった。

 山崎は、取引のあった都市銀行の頭取から取材協力を取り付け、行員とともに金融再編も織り込んだ物語を練り上げた。阪神銀行が上位の銀行を呑み込んで合併する山崎の構想に対し、合併先の大同銀行が歴代頭取を日銀から迎え、経営改革も進んでいないという設定は行員からのアイデアだった。

 シベリア抑留体験を持つ商社マンが主人公の「不毛地帯」では、物語の舞台となるロシアやサウジアラビアなどに加え、軍用機商戦を描くために米国にも取材旅行を敢行した。連載終了後の78年2月には、日米間の戦闘機取引を巡って日本政府高官が商社経由で不正資金を受け取った「ダグラス・グラマン事件」が発覚し、現実を先取りする山崎の眼力の高さが証明された。

■胡耀邦総書記との初対面でいきなりクレーム

 山崎は78年秋に米ハワイ州立大の客員教授、84年には中国・北京の中国社会科学院の研究員として赴任した。しかし文筆を置くことはなく、講義や研究の合間を縫って取材を重ね、日系アメリカ人を主人公とした「二つの祖国」と、中国残留孤児をテーマとした「大地の子」を生み出した。

山崎豊子さんの自宅に残る、膨大な取材の足跡=堺市で2014年8月25日、鶴谷真撮影

 特筆すべきなのは、「大地の子」取材で胡耀邦総書記(当時)と面会し、初対面でいきなり総書記に「中国の官僚主義は根深く、取材の壁が高い」と批判したことだ。野上氏の著書によると、総書記はその姿に打たれた様子で「中国を美しく書かなくとも、真実なら欠点も書いてよい」と取材許可を出した。当時は外国人に開放されていない場所が多かったが、300人以上の孤児から取材できた。総書記との面会は、外国人としては異例の3度に及び、信頼度の高さをうかがわせる。

 「大地の子」はNHKで戦後50年の日中共同制作ドラマとして1995年11~12月に放送された。主演の上川隆也は当時新人俳優だったが、この作品でブレークを果たした。

■ケニアから生まれた「沈まぬ太陽」、主人公と出会い

 「大地の子」執筆に精魂を使い果たし、疲れをいやすために旅立ったのは東アフリカのケニア。そこで旅行社の職員とともに出迎えたのが、「沈まぬ太陽」の主人公・恩地元のモデルとなった航空会社のビジネスマンだった。

書斎で資料を見ながら小説の構想を練る山崎豊子さん=堺市の山崎さん宅でで2012年4月20日、竹内紀臣撮影

 労働組合の委員長として厳しい要求を突きつけて会社ににらまれ、パキスタン、イラン、ケニアと10年にわたって海外支店を転々とさせられた経歴を持つ。労務部次長が支店に巡回視察に来訪して「わび状を書けば許してやる」と要求したことや、会社側が労使協調路線の「第2組合」を結成させて社員の分断を招いたことなども聞いた。それらが組織のひずみを生み、航空機事故につながったと知り、「アフリカ編」「御巣鷹山編」「会長室編」の3部構成となる壮大な構想が固まった。

 御巣鷹山の慰霊登山を手始めに、数多くの遺族の話を聞いたほか、検視に立ち会った医師らからも話を聞いた。米国で航空機メーカーへの取材にも成功した。その一方で、パイロットや客室乗務員、整備職などの組合員らにも取材を重ねた。

■全20話で初のドラマ化、壮絶の大事故を軸に

ベストセラーとなった「沈まぬ太陽」

 渡辺謙が主演した映画は、3時間22分の長時間作品となった。初めてのドラマ化作品は現在、WOWOWで開局25周年記念番組として、地上波連続ドラマの約2倍の全20話で今年5月から放送されている。

 恩地を演じるのは「大地の子」でも主演した上川隆也。左遷されたことを責める妻(夏川結衣)と、組合員仲間の三井(檀れい)や沢泉(小泉孝太郎)の板挟みに苦悩しながらも意志を貫く姿を演じる。一方、同期で労組副委員長だった行天(渡部篤郎)は経営者側に寝返り、恩地と対照的に同期の出世頭となる。國村隼や板尾創路も、社員よりも出世を気にする経営幹部役を熱演し、恩地と行天の対比を際立たせる。7月10日から始まる第2部では、墜落事故が起き、会社再生を目指す恩地の前に常務となった行天が立ちはだかり、2人の対立が決定的になる。

 後年、山崎豊子は「小説を書く限り、現代性、国際性をもったものでなくては、というのが、私の持論です」(断筆となった「約束の海」単行本)と書いた。自身の作家としての生きざまを凝縮した言葉だ。WOWOWで放送中の「沈まぬ太陽」は第2部のスタートを前に7月3日午後10時から第1部の総集編を無料放送。また9日の午後1時から1〜8話を一挙放送する。映像化された「沈まぬ太陽」から、山崎豊子が貫いた、その作家魂をぜひ感じてほしい。
  


Posted by いざぁりん  at 00:50
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 東京都知事選の告示まで2日に迫った12日、自民党東京都連は11日、前岩手県知事の増田寛也氏(64)の推薦を決めると同時に、所属する国会議員や地方議員に対し、党が推薦していない候補者を応援した場合に除名などの処分を科すとする文書を配布した。 .

 自民党衆院議員の小池百合子元防衛相(63)が出馬表明しており、組織を引き締め、分裂選挙の影響を可能な限り避ける狙いがあるとみられる。

 文書は「都知事選における党紀の保持について」と題し、都連会長の石原伸晃経済再生担当相や都連幹事長の内田茂都議らの連名で出された。党公認・推薦候補者以外の者を応援してはならない▽各級議員(親族含む)が非推薦の候補を応援した場合は除名等処分の対象となる−−などとしている。

 小池氏の選挙区である東京10区(練馬区の一部と豊島区)の自民党関係者からは「こんな文書は初めて見た」という驚きや、「支援するなというなら小池さんを除名にするのが筋では」との声も上がる。

 選挙戦ではポスター張りや演説会の手伝いに参加するかが「踏み絵」となる。豊島区の女性党員は「文書は党が地元の動きを怖がっている証拠。みっともない」と話した。
  


Posted by いざぁりん  at 00:49
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http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160712-00000239-sasahi-pol&p=2
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 女性議員や、小池氏と親しくしてきた議員たちからは、「そこまで小池を毛嫌いしなくていいんじゃないの」という同情の声が上がる一方で、「策士、策に溺れる」と突き放す声も聞かれる。

 小池氏は都知事になったら取り組むこととして、【1】都議会の冒頭解散【2】利権追及チーム【3】舛添問題の第三者委員会設置の三つを挙げた。

 だが、都議たちからは、「冒頭の都議会解散なんて、何を言っているのか」と猛反発が起こった。

 都政を長年取材している都政ウォッチャーはこう指摘する。

「小池さんには期待していたけど、あれじゃだめ。都庁も都議会も、何にもわかっていない。東京はもう、喧嘩している時間はない。山積する問題に取り組むスピードが必要です。都議会なんて解散したら、選挙のあいだまた時間がかかる」

 小池氏は「都連はブラックボックス。どこで誰が何を決めているのか不透明なことが多かった」とも批判した。

「ブラックボックスは言い得て妙。会合などで、『意見があったら言って』とは言われますが、あとは執行部一任という形でなんでも決めていく。今回の候補者選びも当初は『執行部一任』となっていた。だが、上から方向を示されたら、異議を唱えるというのは今の自民党では難しい」(自民党都議)

 だが、都連がラブコールを送った増田氏もあまり評判は芳しくない。

 岩手県知事を3期12年務め、その間、岩手県の公債を6千億円から1兆2千億円に倍増させた。岩手県議会関係者はこう言う。
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「増田さんは岩手ではハコものや工場を造ったが、結局、うまくいかなくて、借金ばっかりつくって、すたこらいなくなった。今、岩手県ではその処理をやって大変です」

 増田氏は日本創成会議座長として、東京一極集中のあおりで2040年までに地方の半数が「消滅する可能性がある」という衝撃的なデータを14年に発表。

 関連の編著作はベストセラーとなった。

「増田さんの本によると岩手県も人口が少なくなって消滅するらしい。ひどい言われ方だ」(岩手県の市議)

 増田氏の行政手腕について野党議員はこう話す。

「増田さんは総務相時代、東京都の法人事業税と法人住民税を毎年数千億円規模で、地方へ配布している。つまり、都民のために使われるべきカネを、無関係なところに流している。そして彼は高齢者は地方へ移れという発想なんです。東京都がせっかく特別養護老人ホームを造ってきたのに、高齢になったら田舎に住めというのは、一方的な主張だと思います」

 さらに、急死した鳩山邦夫元総務相の秘書だった上杉隆氏(48)の出馬も取りざたされている。

「私はかつて都知事選に出た鳩山さんの秘書を94年から5年間務めました。都政を17年間取材してきたので、政策論争で闘います」

  


Posted by いざぁりん  at 00:49
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http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160712-00010011-agora-pol
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増田寛也氏、岩手県知事時代は「ファーストクラス」を愛用していた

本日は出馬記者会見ということで、報道各社の記者の皆様に是非とも質問してほしいネタをまとめました。その質問ネタとは「増田さんは岩手県知事時代はファーストクラスをご利用されていたんですか?」というものです。

今回の一連の舛添辞任劇の発端は舛添さんのファーストクラスを利用した豪華海外視察が都議会で追及されたことでした。そのため、東京都よりも何倍も規模が小さい岩手県知事にもかかわらず、知事時代にファーストクラスを利用している人物を都議会自民党が都知事に推薦しようとしていたらシュールな冗談ですよね。では、実際のところはどうだったのかを検証してみましょう。

下記の「岩手日報(2016年5月17日朝刊)」にそのまま回答が載ってました(笑)

“<岩手日報>
「ファーストクラス 達増知事が自粛へ 海外出張で見直し」
 達増知事は16日の記者会見で、海外出張の渡航について「ファーストクラスを使わない方向で見直したい」と述べた。欧米出張時に飛行機のファーストクラスを過去5回利用したが、他県の事例も参考に今後は自粛する考えを示した。
達増知事は任期中に計23回の海外出張を行い、うち復路で1回、往復で2回ファーストクラスを利用。出張費が最も高かったのは、復路でファーストクラスを利用した2013年8月の南北アメリカ訪問で、16日間の渡航と宿泊費が383万円だった。

 達増知事は「旅程の策定は規則に従い、その都度判断し決めている」とし、「全国の多くの知事がファーストクラスを使わず節約しているのは参考にしなければならない」と述べた。

旅費法を準用した県の特別職給与条例は、知事のファーストクラス利用を認めている。政治家の海外出張を巡っては、東京都の舛添要一知事がファーストクラスやスイートルームを使用し「高額過ぎる」と批判が集まっている。増田寛也前知事も海外出張の際にファーストクラスを利用していた。”

以上、引用終わり。

筆者自身も一瞬目の錯覚かなと思いましたが、増田寛也氏も「岩手県知事はトップリーダーだと思い込んでファーストクラスを使っていた」ようです。ちなみに、上記の記事は日経テレコンで検索すると出てくるのですが、何故か現在の岩手日報のネットで無料で読める記事では「増田前知事のことは触れていない」記事になっています(笑)

さて、こうなってくると、都議会自民党の候補者選定はいよいよ「頭と目は大丈夫か?」というレベルに突入してきましたね。記者の皆さんは本日の記者会見で「岩手県知事時代にファーストクラス利用してましたか?」という質問をしてほしいものです。前知事の首を取ったメディアの皆様にはその質問を行う義務があると思います。

増田寛也氏、他人のファーストクラスの利用については徹底批判

ところで、東京都知事に立候補する以上、増田寛也氏には更なる説明責任を果たしてもらう必要があります。それは自分自身はファーストクラスを使った過去を持ちながら「改革派のふり」をして「他人のファーストクラスを糾弾してきたこと」についてです。

“(増田寛也の目)自治体の事業仕分け地方分権を迫る武器に(朝日新聞2009年12月22日)

「増田 国の事業仕分けの評価=「光と影」の「光」から言えば、今まで密室でやっていた予算編成の一過程が、公開されたことだ。予算は多様な観点から見なくてはいけないことが国民に伝わった。民主党政権が標榜(ひょうぼう)する政治スタイルを見せた。天下りの問題に象徴されるように、役人同士でやっていた時代には削減できなかった限界を乗り越えた。ノーベル賞科学者が反論したが、必ずしも賛同を受けなかった。JICA(国際協力機構)予算や外務省職員の給料、ファーストクラスを使っていることまで洗いざらい出てきた。」

「増田 今までは、農業や建設業などの力の強い圧力団体とこれに結び付いている族議員=「影」の世界に通じる言葉さえ発していれば、予算は獲得できた。「隠語」で通じた。これからは、国民に対して語りかけないと予算の正当性が説明できない。訴える相手が内輪から国民に変わった。」”

以上引用終わり。

もはや自分の目を疑うことをやめて「人生を賭けたギャグなのではないかとすら疑う状況」ですね。舛添さんは少なくとも「ファーストクラスを使用する意義」について語っていましたが、増田寛也氏は自分を棚に上げて他人を糾弾する「舛添を上回るセコさ」を発揮しています。それとも、岩手県知事はトップリーダーだから良いんでしょうか(笑)

しかも、今回の東京都知事選挙立候補までの「都民に全く説明責任が果たされない」プロセスなんて、完全に内輪の隠語ではないですか?この点についても是非出馬会見で記者の皆様には追及してほしいものです。

「自分に甘く他人に厳しい」性格の増田寛也氏は舛添以下の可能性

ちなみに、直近では増田寛也氏は舛添さんが湯河原に帰って東京都内にいなかったことを批判していました。

「舛添都知事 集まる批判 高額な海外出張費 毎週末の別荘通い」(読売新聞2016年5月9日)
■都庁から100キロ
 舛添知事が、ほぼ毎週末、都庁から約100キロ離れた神奈川県湯河原町の別荘で過ごすことへの批判も集まる。舛添知事は、「翌週の準備や資料整理などをして過ごす。緊急連絡体制が整っており、危機管理上も問題ない」と説明する。
 公務後に別荘に行く場合や、別荘から直接公務先に向かう場合は公用車を使い、4月11日までの1年間に計48回、使用した。知事の公用車使用を巡っては、石原氏が知事時代、別荘への移動で使用したことの是非が訴訟で争われ「交通手段、連絡体制の確保などの観点から妥当」との司法判断が出ている。
 しかし、舛添知事は頻度が高く、元岩手県知事の増田寛也氏は「毎週末は多すぎる。公私をきちんと峻別(しゅんべつ)し、公用車の使用も控えるべきだ」と指摘。危機管理の点も「知事がすぐに登庁できない確率が高まる」と問題視している。

・・・立派な発言ですね。では、実際の増田寛也氏の岩手県知事時代のトラックレコードはどうだったのでしょうか?以下、平成16年3月9日の岩手県議会議事録を参照し、県外への視察日数が多すぎる旨を追及された証拠を提示しておきます。

<以下会議録から引用>
“斎藤信議員
「知事の県外出張について、実態について聞きます。県外、県内、海外と、その状況はどうでしょうか。」

増田寛也
「私の出張の日数の問い合わせでございますけれども、今年度の数字で申し上げますと、2月末現在まででございますけれども、この中で県外出張が81日、県内出張が66日、それから海外出張が24日という数字になっております。」

斎藤信議員
「実際、結局171日出張していることになるんですね。私は、東京に行っているより、児童虐待とか県内の本当に深刻な問題をしっかり知事の目で見ていただきたい、そういう仕事をしていただきたい。終わります。」”

県外出張と海外出張の合計が105日という状況だったわけですが、たしか舛添さんのことを「危機管理の点から問題で知事がすぐに登庁できない確率が高まる」と批判していた人の名前も増田寛也氏だったように思います。同姓同名の別の誰かでしょうか?増田氏の任期中に東北大震災が起きなかっただけのことであり、彼の海外出張中に震災が発生していたなら史上最悪の知事として名前を残したと思います。

「できる人間(改革派)に見られるためには、できる人間(改革派)としてふるまうことが大事」

上記の通り、増田寛也氏は「自分自身がやってきたこと」を「他人もやることは許せない」ようです。ただし、改革派のような発言で繰り返し他人を批判していますが、物凄いブーメランぶりで驚きを禁じ得ません。

まさに「できる人間に見られるためにはできる人間としてふるまうことが大事」という格言を地で行く有様であります。自分と周囲のお友達で「実務派・改革派」と言い続ければ、実務や改革の実際のトラックレコードとは関係なく、「実務派・改革派」になれてしまう「お友だち政治の象徴」のような存在だと言えるでしょう。

増田寛也氏については少し調べただけでも湯水の如く様々な問題が出てきますが、今回はこの辺りにしておきたいと思います。最後になりますが、大事なことなのでもう一回だけ、この場で述べさせてもらいます。

本日は出馬記者会見なのでメディアの皆様は下記の点について増田寛也氏の政見をしっかりと糺してください。

(1)増田寛也氏は岩手県知事時代にファーストクラスを利用していたのか
(2)増田寛也氏は岩手県知事時代の県外出張の多さについて問題だと思っているのか
(3)増田寛也氏は今回の擁立プロセスを自らが批判していた「内輪の隠語」だと思わないのか

以上です。増田寛也氏に関する現在までの疑問点をまとめた拙稿は下記の通り。興味がある人はそちらも参照してみてください。きっと有権者を心の底から舐めてるんだろうなと感じますから。

本記事の内容は所属機関とは関係なく渡瀬個人の見識に基づくものです。取材依頼や講演依頼などはyuya.watase02@gmail.comまでお願いします。

  


Posted by いざぁりん  at 00:48